我妻与四松

我妻与四松(あがつまよしまつ:1900~1972)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤治平/佐藤松之進

弟子:我妻昭三/我妻信幸

〔人物〕 明治33年12月5日、遠刈田の鋤鍬柄師我妻与七の長男に生まれた。大正元年遠刈田尋常高等小学校を卒業後、吉田畯治の木地工場に入り、食費自弁の契約で働いた。当時吉田の木工所には、佐藤治平、佐藤倉吉(平沢出身、吉郎平の弟子)ほか数人がおり、木地挽はおもに治平に師事した。大正2年14歳のとき、自宅にロクロを取り付け、北岡商店の職人として働き、玩具、こけし等を挽いた。19歳以降は冬季間の木地屋仕事として山に入り、山小屋で直助、吉五郎、周吾、巳之吉らと共に働いた。
大正7年に終わった第一次大戦後の不況の影響を受け、さらに大正10年ころからセルロイドやブリキ玩具におされて木地玩具は不振になったために転業を余儀なくされた。そこでまず製炭業に従事、さらに昭和元年より同12年まで馬夫、昭和13年より魚の行商を行った。昭和7年に長男昭三が、昭和10年に二男信幸が生まれた。
魚行商時代の昭和15年5月に、渡辺鴻に依頼されて佐藤友晴の木地に描彩のみ行った。昭和16年刊の〈鴻・11〉で作者として紹介された。
戦後も魚屋を続けたが、昭和25年ころから当時盛んになった新型こけしの木地を挽いた。この時期に昭三、信幸も木地を挽くようになった。また時に注文のある旧型の製作も行った。昭和35年より土産店経営、旧型こけしの描彩もかなり行うようになった。昭和47年3月15日没。73歳。

 
左より 我妻昭三、我妻与四松 昭和36年 撮影:露木昶

〔作品〕こけしを作り始めたのは、大正3年15歳のころで、もっとも大量に作ったのは大正5年17歳のころだという。大正10年に転業するまで作り続けたが、この時代の作品は残っていない。
現在確認されているのは、昭和15年友晴の木地に描いたものが最も古い作で、この時は
500本程度描彩したと言う。松之進にも描彩の指導を受けたようである。
下掲写真は〈鴻・11〉に掲載された口絵写真。


〈鴻・11〉に掲載された与四松二種、昭和15年5月作

下掲の西田コレクションの8寸はその時の友晴木地のもの、〈鴻・11〉掲載のものと同時期の作。面描には松之進、治平の面影があり、こけしとしても品格があって見ごたえがある。


〔 24.2cm(昭和15年5月)(西田記念館)〕 西田コレクション

戦後は新型木地を挽いていた関係もあり、全体的に甘い表情になったが、当時の遠刈田の平均的な作風であった。


〔 右より 16.5cm(昭和31年)、30.3cm(昭和45年)(高井佐寿)

〔伝統〕遠刈田系吉郎平系列

 

〔参考〕

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