秋山忠

秋山忠(あきやまただし:1888~1947)

系統:鳴子系

師匠:佐藤徳三郎/大沼岩蔵

弟子:秋山忠市/秋山忠三郎/秋山清一/秋山耕一郎/秋山耕作/秋山慶一郎/有路三蔵/高山良吉/伊藤養吉/秋山清作/丹藤武

〔人物〕   明治21年8月26日、宮城県遠田郡涌谷の商業秋山清八郎・らんの次男に生まる。秋山家は代々士族であったが、維新後は一族北海道に渡り、清八郎家のみが墓守りに残った。
清八郎一家は明治31年、忠12歳のとき、鳴子へ転居した。家は現在のとらやのあたりだったという。鳴子の小学校では高橋武蔵と同学年であった。明治34年高等小学校を卒業すると、鳴子の椀木地師佐藤徳三郎について木地を修業したが、師徳三郎は中途で亡くなってしまう。家の近くに大沼甚三郎がいた縁故で、明治38 年より中山平いた甚三郎長男の大沼岩蔵の弟子となって技術を完成させた。
翌39年父清八郎が鳴子(現在の西条菓子舗の場所)に秋山木工所を創設し、川連から職人を呼んで椀挽きを始めたので、忠もこの工場に移り木地業に従事した。この工場では、高野幸八、松田初見なども働いたことがある。
秋山木工所時代の忠の弟子では、兄の耕作、弟の慶一郎、 有路三蔵、高山良吉、伊藤養吉などが知られている。明治41年入隊、同43年23歳で除隊後、一時岩手県鉛温泉で木地を挽いたが、間もなく自家に戻り独立開業した。独立時代の弟子には、甥の清作、丹藤武がおり、職人としては後藤希三、桜井万之丞岡崎斉吉などが働いていた。製品は茶盆等であったが、こけしも作った。大正7年の春、電動モーターロクロを自家に設置して横木の鉢類や盆類を挽いた。モーターは珍しく鳴子の多くの工人が見に来たり、また練習をしたりもした。しかし当時はまだ宮城県電がなく、電気代は非常に高価であったため採算が取れず、半年くらいで停止した。
大正12年、関東大震災で得意先がつぶれ、木地業がふるわなくなると、鳴子を離れ、岩手県釜石付近の甲子鉱泉や、中山平の高友工場などを転々とした。高友工場では工場長を務めた。
ただし、一説には大正13年に鳴子秋山忠工場に電力ロクロが導入され、横木の大型挽き物を生産したという記録もある(宮城県の産地診断書「産業の沿革」)。
鳴子へ帰ったのは昭和10年で、戦後忠市の秋山こけし店のあった場所に落ち着き、足踏みロクロで木地業を再開した。その後、〈木形子〉で紹介され、こけしも多く作るようになった。この時代の弟子には、長男忠市、二男忠三郎、四男清一、甥の耕一郎などがいる。こけしは昭和18年ごろまで 作った。昭和22年7月12日、鳴子没。行年62歳。

秋山忠

秋山忠

〔作品〕  下掲は鈴木鼓堂旧蔵で〈愛玩鼓楽〉には作者不明で掲載されている。入手は大正期という。目の鋭角的な描法、および下に示す橘文策旧蔵のたちことの描法の共通性から秋山忠のものに間違いはないであろう。秋山忠は大正12年に鳴子を離れるので、このこけしは大正12年以前の作と思われる。古風な鳴子のたちこの面影を伝える貴重な作である。
〔11.9cm(大正期)(鈴木康郎)〕 鈴木鼓堂旧蔵
〔11.9cm(大正期)(鈴木康郎)〕 鈴木鼓堂旧蔵

下三本のうち左2本は橘文策旧蔵、橘本人が昭和7年に鳴子で買い求めてきたものである。前掲の大正期と比べると、前髪及びその水引飾りの形状が同一であり、胴模様の楓の茎のカーブも同一であることから、前掲の大正期も秋山忠の作であると同定される。

〔右より 10.0cm(昭和7~8年頃)(石井政喜)、10.4cm、10.7cm(昭和7年)(鈴木康郎)〕
〔右より 10.0cm(昭和7~8年頃)(石井政喜)、10.4cm、10.7cm(昭和7年)(鈴木康郎)〕

昭和10年ごろまでの初期の作品は、鋭角的な筆づかいで、表情のきついものが多い。深沢要は〈こけしの微笑〉で、これを山形式の筆法と表現し、「全体の鄙びた感じは鳴子の誰よりも強い」と評した。
〔24.2cm(昭和10年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔24.2cm(昭和10年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

〔16.1cm(昭和12年頃)(深沢コレクション)〕
〔16.1cm(昭和12年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

昭和15年以降は胴がやや太くなり、染料も紫や桃色に近い赤などを用いるようになった。山形式の筆法もしだいに特色を失っている。
こけし蒐集家の要請に対しては好意的に対応し、当時横木専門であった岸正男・桜井万之丞の木地を依頼により挽いたりしている。戦前の正男、万之丞のこけしには忠の木地のものが多い。

系統〕 鳴子系。 木地は岩太郎系列であるが、描彩は小学校同学年だった高橋武蔵の影響が強い。むしろ、こけしは直蔵系列に近いものである。秋山忠のこけしの型は、長男忠市が継承した。

[`evernote` not found]