足踏みロクロ

ロクロの軸に二本の綱を逆向きに巻き、その端を踏み木の先につけて、足でその踏み木を交互に踏んで軸を左右に回転させるタイプのロクロをいう。その軸に取り付けた用材を手にもった鉋を使って旋削する。単に踏みロクロともいい、また、手引き(二人挽き)ロクロが綱取りと鉋取りの二人がかりで木地を挽くのに対し、一人で操作するので一人挽きロクロともいう。
手引ロクロと異なり、ロクロを地上に置いてロクロ自体の重みで安定させるのではなく、下に踏み木を取りつけられるような高い位置に固定するため、重く大きい必要はなく、そのためロクロ軸など小型化していった。
また、手引きでは縦挽きと横挽きを、鉋取りが位置をかえることにより使いわけることができたが、足踏みではこれがいずれかに固定されざるをえず、その点からも工具などに影響を与えた。
この足踏みロクロに関して、〈木形子談叢〉は箱根あたりで発明されたとしているが、箱根台ノ茶屋の故大木重盛老が父重太郎(昭和11年82歳で没)より聞いた話として、明治初頭に東京から箱根へ伝えられたものであるという。また奥村正二著〈火縄銃から黒船まで〉(岩波新書)には、足踏みロクロの構造は江戸時代の「いざり機(ばた)」に広く使われていたとある。足踏みロクロは、江戸時代の末期に「いざり機」の構造を応用して大阪方面で発明され、全国にひろまったものかも知れない。
下掲の二葉の写真では、鳴子の横挽き足踏みロクロと、土湯の縦挽き足踏みロクロを示す。


横挽きの足踏みロクロを使う桜井昭二(鳴子) 平成22年9月 鳴子こけし祭り会場にて


縦挽きの足踏みロクロを使う阿部国敏(土湯) 令和2年2月 天理ギャラリーにて

足踏みロクロは自分で回転させながら挽くため、手引きロクロより自由に使いこなすことができ、技術や工具、製品の進歩を促した。それと同時に鉋を使う作者が、自分の創意工夫によって多様な形態を挽き得るようになったため、製品の造形の多様性を促すことにもなった。これは描彩においても同様で、例えば土湯の返しロクロの胴模様などは、回転を操作する工人が自らタイミングを合わせて描彩できる足踏みロクロでないと実現できなかった。
こけしの主な産地に足踏みロクロが伝わったのは明治18~20年頃で、それを伝えた工人として膽澤為次郎や田代寅之助の名前が知られている。

  • 遠刈田:明治18年正月 田代寅之助によって佐藤周治郎佐藤久吉、佐藤茂吉、佐藤七蔵、佐藤吉五郎、佐藤寅治、佐藤重松に指導
    その後、弥治郎の佐藤栄治、毛利栄治や、肘折に行く井上藤五郎などが遠刈田で足踏みの技術を習得した
  • 青根:明治18年7月 田代寅之助により丹野倉治の工場で、槻田与左衛門、菊池勝三郎、佐藤幸太に指導、また明治18年10月膽澤為次郎も来て一か月ほど指導した。
    田代、膽澤の去ったあとに、蔵王高湯の岡崎栄治郎、菊地勝三郎、太田庄吉、照井音治など多くの工人が来て足踏みロクロを習得した。
  • 土湯:明治18年4月膽澤為次郎が加藤屋の二階に仮設した作業場で、西山弁之助、阿部熊次郎、佐藤嘉吉、佐久間由吉阿部金蔵、渡辺久吉に指導した。
  • 鳴子:明治20年頃に温泉楼の主人の考案で未熟ながら一人挽きロクロが生まれたという。大沼岩蔵は明治24年16歳で一人挽きロクロに上がったと語っていた〈鳴子・こけし・工人〉。また岩蔵は明治27年に青根の小原仁平工場でも働いている。明治30年ころには、膽澤為次郎が鳴子に来て高野幸八、高橋万五郎、高橋利四郎、高橋勘治、遊佐雄四郎、大沼新兵衛に足踏みロクロの指導を行った。

この足踏みロクロの技術は明治20年代には、ほとんどのこけし産地へ伝えられ、この新技術によってこけしの形態、様式の多様化が推し進められることとなった、その結果としてこけしの11系統への分化が起こったのであった。

なお、ミシンのようにペダルを踏んでハズミ車を廻すタイプのロクロもあるが、これは西洋の金工用のダライ盤が原型である。盛岡の松田清次郎、煤孫茂吉は明治23年に日本鉄道が開通した時にその盛岡車両修繕工場で、金工ダライ盤を見て自分たちのハズミ車応用足踏み旋盤を開発したという。

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