天野正右衛門

天野正右衛門(あまのしょうえもん:1910~1965)

系統:鳴子系

師匠:岡崎斉

弟子:

〔人物〕   明治43 年7月20日、山形県北村山郡東根町大字東根甲413の農業天野又右ヱ門・ヤノの二男に生まれた。
丁度この頃、大旱魃が二年に渡って続いたので、又右ヱ門は敷地内に独鈷井を試み、32間ほど掘り下げたところ良質の温泉が湧き出した。これが東根温泉の始まりで、これを期に天野家は温泉旅館業に転じた。
正右衛門は、学校卒業後鳴子温泉へ療養に行ったことが契機となり、昭和元年17歳のときに鳴子の岡崎斉に弟子入りして木地の修業を始めた。斉の父仁三郎と1年前に入門した兄弟子の本間留五郎に鍛えられ、仁三郎より塗り下を、斉より玩具を習った。昭和2年からは岡崎斉吉工場の職人として働いた。 正右衛門は「こけしつくりは三年仕事といい、いつまでもこけしを挽いているのを見られるのは恥ずかしいことだった。」と語っていた。年期明けが近く、腕が上がったころは主に塗り下を挽いたという。
昭和4年5月24日東根に帰り、土産店を開業して、こけし等の土産物を挽いた。実家の旅館元湯の廊下に並べて売ったりもした。また、東根周辺の次男、三男対策として木地挽き養成所を開き、正右衛門のほか大沼新兵衛、佐藤養作らが加わって運営したともいう。しかし土産物店と実家の旅館業との両立は難しく、3年後に土産物店を中止、旅館業に専念することとなった。昭和14年、東京こけし会の〈こけし・4〉で、深沢要短信中に新工人としての正右衛門の名と住所が紹介され、同17年には〈古計志加々美〉に秀島孜の入手したこけしの写真が掲載された。紹介当時から長く庄右衛門とされていたが、戦後吉田慶二により正右衛門が正しいと訂正された〈こけし手帖・38〉。ただし戸籍表記は正右ヱ門である。
戦前から旅館経営に忙しく、こけしを挽くゆとりはなく、ほとんど作らなかった。残る作品数は少ない。
戦後も製作状況は大差なく、比較的難物工人の一人であったが、昭和34年ごろ鳴子の岡崎斉の工場に行き20本ほど挽いた。また他人木地に描彩したものもある。妻ヨシとの間に、てる、二三子の二女あり、てるの夫東海林桂司を婿養子とした。昭和40年9月8日没。行年56歳。蒐集家は「アマショウ」の略称で呼ぶ。

〔作品〕 昭和初年、岡崎斉の弟子時代、斉吉工場の職人時代のこけしは知られていない。
また、東根に戻って三年ほど土産物店を開いていた時代のものもはっきりしない。〈山形のこけし〉には鈴木慶次郎蔵で昭和初期かとするこけし4寸の写真が掲載されているが、同書では確証はないとしている。
昭和16年復活初期の秀島孜作は〈古計志加々美〉で紹介され、後に鹿間時夫の手に渡った(下掲写真)。横に張った頭部と面描は、大正期の岡崎斉に通じるものがある。
〔31.4cm(昭和14年)(鹿間時夫旧蔵)〕
〔31.4cm(昭和14年)(鹿間時夫旧蔵)〕

下掲は深沢要蒐集品であるが、秀島蒐集品に比べると幾分両鬢の間隔が狭まり顔の造作が小ぶりになっている。

〔30.3cm(昭和16年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔30.3cm(昭和15年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

戦後、昭和22、3年に短期間自家のロクロで挽いたこけしは残っている。用材を手に入れるのが難しく、稲杭をロクロにかけてこけしを作ったとも言われていて、〈山形のこけし〉では「いわゆる稲杭こけし」として紹介されている。下掲の鈴木康郎蔵2本もその頃の作で稲杭を用いたこけしかもしれない。緑の染料が手に入れにくかったためか、青の顔料を使っている。

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〔15.2cm、14.4cm(昭和22年頃)(鈴木康郎)〕 所謂 稲杭こけし

その後、昭和34年ごろ鳴子の岡崎斉の工場に行って挽き、自ら描彩したこけしが20本ほどある。また、岡崎の家の木地に正右衛門が描彩を施したというものもある程度残っている。

戦前の作、特に長い中断を経て復活した初期のこけしは、岡崎斉の大正期の作風を残した雅味ある作品であった。

系統〕 鳴子系岩太郎系列

〔参考〕