荒井金七

荒井金七(あらいきんしち:1884~1955)

系統:蔵王高湯系

師匠:岡崎久作/岡崎栄治郎

弟子:木村吉太郎

〔人物〕 明治17年7月6日、山形県上ノ山町城北町の車夫荒井鯛蔵、りゑの二男に生まれる。明治28年上ノ山尋常高等小学校を卒業した。当時上ノ山で湯宿をやっていた岡崎小兵衛が蔵王高湯出身で、能登屋の岡崎久作と旧知の間柄であったため、明治30年ごろ久作の弟子となった。蔵王高湯では久作の弟栄治郎におもに木地を習い、栄作、久太郎等は兄弟弟子であった。久太郎には金七が指導したといわれている。こけしも盛んに作り牡丹模様、重ね菊、桜崩しの三種類を描いた。
明治36年春、年期明け後、上ノ山へもどり独立開業した。
明治37年陸軍補充兵として入隊、日露戦争のため出征渡満、明治39年帰還した。以後木地を続け、明治41年南村山郡南原村吉原より妻スエを迎えた。こけし、だるま、独楽、臼と杵等の玩具類や雑器類を作り、品物は蔵王高湯風に妻スエが温泉宿へ提げ売りをして回った。明治45年3月木村吉太郎が入門し、木地を習い、大正6年まで修業した。
大正7年9月より、小林吉太郎の世話で米沢に移って機業用ボビンの製作を手伝い、同10年5月帰郷後ふたたび木地を再開した。大正13年にも一時米沢で働いたが、以後上ノ山で営業を続けた。
昭和6年3月木地専業をやめて、鶴脛町共同浴場(温泉会社)の湯番となり、昭和29年6月まで勤めた。その間にも収集家の求めに応じて時折りこけしを作った。
昭和30年2月19日没。行年72歳。
金七の長男清は鉄道員となり木地は継承しなかった。
作品は〈日本土俗玩具集〉時代より知られていたが、作者名を最初に紹介した文献は〈 木形子研究〉である。また橘文策は昭和7年に上ノ山に金七を訪ねており、その訪問記が〈こけしざんまい〉に収録されている。

荒井金七 昭和7年 撮影:橘文策

〔作品〕婢子会は大正13年11月より15年8月にかけて活動した関西で最も古い郷土玩具の集まりで、友野祐三郎、筒井英雄、黒田源次、尾崎清次、西原豊が同人だった。婢子会は〈日本土俗玩具集〉(全五輯)を発行したが、その中に掲載された第二輯第五図が下掲写真で11本のこけしが紹介されている。この中で左から2本目が荒井金七の作である。


〈日本土俗玩具集〉第二輯第五図

上掲〈日本土俗玩具集〉掲載作は極初期の作である。嵌込式で重ね菊、割れ鼻がくっついて一本線のように見えるのが特徴である。表情は比較的優しく、目も後期より小さい。〈日本土俗玩具集〉出版以前の作であるから大正13年以前であることは間違いないが、一説には明治末とも言われており、貴重な資料である。〈美と系譜〉図版108左端の米浪庄弌旧蔵も同時期の作である。
昭和7年橘文策の訪問があり、その時注文を受けたこけしは昭和8年 木形子洞頒布となって蒐集家の手に渡った。下掲の高橋蔵、深沢旧蔵、国府田蔵、久松旧蔵右端はその頃の作例。


〔23.9cm(昭和8年)(高橋五郎)〕天江コレクション


〔23.0cm(昭和8年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション


〔9.7cm(昭和8年)(国府田恵一)〕 木形子洞頒布

主な製作時期は昭和8年から16年頃で、下掲のように桜崩し、牡丹、重ね菊の三種の胴模様を描いた。〈美と系譜〉図版31のように一筆目に丸鼻の面描に赤と紫の重ね菊を描いたこけしもある。


〔右より 24.0cm(昭和8年)、30.0cm(昭和14年12月)、25.0cm(昭和15年)(久松保夫旧蔵)〕

大寸には好んで牡丹模様を描いたが、この図案は木地玩具の野菜篭(八百屋篭)由来のものといわれている。弟子の木村吉太郎は好んでこの図案の胴模様を描いた。


〔 31.5cm(昭和15年頃)(高井佐寿)〕

小寸作りつけは昭和8年から16年にかけて継続的に作っていた。一筆目で胴模様は桜崩しが大部分である。丸鼻が多いが下掲左端のように割れ鼻のものもあった。


〔右より 11.0cm(昭和11年)(石井政喜)、12.0cm(昭和15年)(北村育夫)、12.5cm(昭和15年頃)(鈴木康郎)野々垣勇吉旧蔵〕

戦後の作として昭和29年に木村吉太郎の木地に描彩したものが5本ほど知られている〈こけし手帖・2〉。 

〔伝統〕蔵王高湯系 能登屋
吉田昭が金七遺族の承諾を得て金七型を継承した。

 

〔参考〕

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