猪狩庄平

猪狩庄平(いがりしょうへい:1914~)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤誠

弟子:

〔人物〕 大正3年5月4日、猪狩清大の長男として福島県平四倉で生まれる。弟に勝彦がいた。両親は木地業とは関係なかった。昭和4年16歳のとき、いわき市平佃町の木地師佐藤誠に弟子入りした。当初、大工の徒弟になったが親方の家の隣が佐藤誠の家で、毎日木地挽きを見ているうちに、大工よりも木地挽きに興味をもち、大工徒弟は一ヶ月でやめて誠に入門した。昭和9年6月徴兵検査のため誠のもとを離れた。こけしはこの間、おもに昭和8年ごろに作った。昭和10~11年の二年間、仙台市交合町の福々商会に職人として入った。このとき、こけしを少量製作した。昭和13年には木地業をやめて東京へ出た。その後昭和16年に平に帰り、戦後も長くいわき市平字九品寺前に住んでいた。昭和45年1月に中屋惣舜が訪ねて聞書きを取ったが、その時には既にソコヒ(底翳)に罹って視力がなく、木地、描彩とも製作は全く不可能であったという。その後の消息は不明である。
 

〔作品〕 猪狩庄平の名が掲載された初出の文献は昭和13年8月刊の〈木形子・第参号〉である。佐藤誠の項に「胴はロクロー式で根氣のいゝ仕事ぷりを見せてゐたが、近時稍粗雜になった。一説に工人猪狩庄平の作だとも言われる」と書かれている。庄平が誠こけしの代作、あるいは合作こけしを作ったかもしれぬと言う説については、中屋惣舜が本人を訪ねたときに庄平は「代作、合作こけしを作っていない」と明言したという。おそらく、庄平が誠によく似たこけしを作っていたこと、そのころ、誠はこけしをあまり作っていなかったことなどから蒐集家が憶測したのであろう。
昭和4年から9年までの平時代に庄平が作ったこけしの数は、おおよそ4~500本で、その大半は昭和8年ごろに作ったという。昭和10~11年の仙台時代に作ったこけしの数は、100本位らしい。昭和16年に平に帰ったあと蒐集家に頼まれて作った作品の数は限定的である。なおこの時期に佐藤誠の弟子の小松利意も極少数こけしを作ったが、猪狩庄平と関係を持っていたかどうかははっきりしない。
庄平のこけしは本人の話からは比較的多く作られたようだが、現存のこけしは非常に少ない。昭和16年の深沢コレクションの二本と西田コレクションのものが知られている位である。あるいは佐藤誠作といわれているこけしの中に猪狩庄平のものが混入しているかもしれない。


〔右より 9.1cm、19.1cm(昭和16年2月)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

 

〔伝統〕弥治郎系嘉吉系列

 

 

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