伊藤松三郎

伊藤松三郎(いとうまつさぶろう:1894~1976)

系統:鳴子系

師匠:高橋万五郎

弟子:伊藤松一/伊藤肇/伊藤長一/三浦光美/石川源三郎

〔人物〕 明治27年8月17日、宮城県古川市中新田の酒屋伊藤権三郎・はつの二男に生
まる。明治29年3歳で父権三郎と死別後、鳴子高橋金太郎に引きとられて成長した。
木地は高等小学校在学中の11歳より金太郎の長男万五郎について修業した。明治39年冬は、高橋寅蔵・鈴木庸吉とともに万五郎のもとで働いた。
明治40年14歳で鳴子尋常小学校を卒業。明治41年15歳のとき、小松五平とともに岩手県鉛へ行き、藤井友治の職人となった。一ヵ月後に万五郎と合流したが、事情により鉛温泉を去り、放浪の生活を数年送った。一ノ関・東京・今市・青根・鳴子と遍歴し、明治42年8月27日に再び花巻の万五郎のもとへ帰った。この間、今市ては傘ロクロと樽の口を挽き、青根では小原直治の工場で職人をしたという。
明治45年19歳で花巻佐藤末吉の姉よねと結婚、大正2年1月20日20歳のとき、青森県浅虫の島津勝治の職人となった。しばらくして浅虫で独立開業し、義弟末吉が弟子に入った。
大正5年には家族を浅虫に残し、末吉とともに北海道へ渡り鰊漁に出たが失敗、翌年も出かけたが再び失敗した。さらに3年目も失敗し、浅虫に帰れなくなったので、下駄作り、木炭焼きなどをして働き、定山渓を経て浅虫へ帰った。初めは定山渓で働くつもりでいたが、弥治郎の佐藤伝内がいたので働けなかったという。大正8年再び北海道へ渡り、幌内で帆立曳きをしたが、この時は75円ほどの稼ぎになった。その後再び定山渓へ行って佐藤伝内の職人となり、3ヶ月後に経営が久蔵に移ってからもしばらく働いた。その後、カムチャッカで鮭漁をしたが、これも失敗に終わった。これが最後の魚取りであったが、結局魚とりはいづれも成功しなかった。
大正11年29歳のとき、万五郎の一周忌を機会に家族で鳴子へ帰った。大正13年長男松一が生まれる。鳴子では鈴木運吉について大工を習い、大工業に従事、東京へ出て2年間大工をしたこともあるという。しばらくして転業し、岡崎斉吉工場の手伝い、スキー作り、高橋寅蔵のうどん屋の手伝い等をして生活した。昭和12年44歳のとき、胃をわずらったのがきっかけとなって、独立して木地挽きになる事を決意し、遊佐民之助のロクロを55円で買って木地業を開業した。このロクロは高野幸八が使っていたものである。当初は木地だけを挽いて、岡崎工場にいた本間留五郎に描彩を頼んでいたが、留五郎が応召したので、自ら描く様になった。松三郎名義のこけしを最初に作ったのぱ昭和13年で、米浪庄弌氏のすすめによる。〈こけしと作者〉でこけし工人として最初に紹介された。
昭和14年秋には、山形県長沢で木地指導を行なった。伊藤肇宅にロクロを据え、伊藤肇・伊藤長一・三浦光美・石川源三郎に技術を伝えた。以後長沢には冬季に都合10年ほどかよって木地を教えた。伊藤長一と三浦光美はこけし作者として知られる。

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伊藤松三郎 昭和14年ころ

娘に綱を取らせて木地を挽く松三郎
娘に綱を取らせて木地を挽く松三郎 昭和14年ころ

上掲の写真で綱取りをしているのは松三郎の娘であるが、このあと東京に出て間もなく亡くなった。松三郎長男松一は、当時日立の鉱山学校在学中であったが妹の死を契機に鳴子に呼び戻され、木地の修業を始めることになった。
昭和20年52歳より大口村字沼井の開墾を始め、そのかたわらこけしの製作を続けた。以後長男松一と共に沼井でこけしを作り続けた。昭和51年11月7日没、83歳。
なお、松三郎の実際の生年は戸籍面より1年早く、聞書では戸籍年齢より一つ多くなる。ここでは戸籍年齢に統一した。
大変記憶力が優れていて自分の経歴のほか、浅虫、花巻、定山渓などでともに働いた他の工人のことなども詳しく覚えていた。聞書きを取るのには協力的で、西田峯吉著の〈こけし・鳴子・工人〉にも詳細な聞書きがある。幼少期に引き取られた高橋金太郎についての話や、浅虫の木地挽山と称する場所で温湯から来た老木地師がジョウバツチその他の木地玩具を挽いていたと言う話などは貴重である。

伊藤松三郎 昭和45年 
伊藤松三郎 昭和45年

伊藤松三郎 昭和47年
伊藤松三郎 昭和47年

〔作品〕 昭和13年から製作を開始した。初作に近いこけしは〈こけしと作者〉で紹介されている。細胴で鄙びており、情趣に富む。下掲写真の深沢コレクションの松三郎は〈こけしと作者〉の作風に近い。

〔18.8cm(昭和15年頃)(深沢コレクション)〕
〔18.8cm(昭和13年頃)(深沢コレクション)〕

その後〈鴻・第3号〉(昭和15年9月)で取り上げられ、尺、8寸、6寸の三種が茶房鴻の頒布にもなった。鴻頒布は数は多く、松三郎の戦前作としてはこの時期の作が一般的である。

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〈鴻・第3号〉に載った伊藤松三郎のこけし

下掲の楳茂都陸平旧蔵は鴻頒布の時期の作品である。

〔24.1cm(昭和15年)(楳茂都陸平旧蔵)〕
〔24.1cm(昭和15年)(楳茂都陸平旧蔵)〕

戦後は頭がやや角ばったが、戦前に準じた作品を作った。

〔35.5cm(昭和35年)、17.8cm(昭和39年)(橋本正明)〕
〔右より 35.5cm(昭和35年)、17.8cm(昭和39年)古型(橋本正明)〕

昭和38年には東京こけし友の会の注文で、金太郎のこけしを思い出して一筆目の古型を製作し注目された。小寸物にも持味を発揮し、牡丹模様など佳品が多い。昭和40年代前期には古鳴子の雰囲気を伝えるこけしとして人気が高かった。

〔右より 11.9cm、24.2cm、11.8cm、11.8cm(昭和44年頃)(橋本正明)〕金太郎型と称していたもの
〔右より 11.9cm、24.2cm、11.8cm、11.8cm(昭和44年頃)(橋本正明)〕金太郎型と称していたもの

〔伝統〕 鳴子系金太郎系列

〔参考〕