黒田うめの

黒田うめの(くろだうめの:1909~1972)

系統:山形系

師匠:小林吉太郎

弟子:

〔人物〕 明治42年1月17日、山形県南村山郡柏倉門伝村の農業辰野梅次の四女として生まれる。昭和2年米沢市玉ノ木町に住んでいた木地師黒田精四郎(南村山郡滝山村元木の村上元吉弟子)と結婚した。精四郎は昭和10年より市内信濃町にあった米沢航空第2工場(木工所)に勤務、ここでは小林吉太郎・村上元吉・高崎栄一郎と共に木管・ボビン・軍関係の木地物を挽いた。うめのはこの縁で昭和14年頃吉太郎の描彩弟子となり、吉太郎のこけしに参加した。昭和18年吉太郎没後に米沢航空を退職したが、戦後は米沢一般型こけしで描彩を復活した。のちに市内本町の吉田三郎(昭の父)経営による木工所で武田仁兵衛の木地に、新型の描彩を行った。吉田昭にも描彩を教えた。昭和41年に東京へ移住したが、昭和47年1月に亡くなった。行年64歳。

子供の肩に手を置いているのがうめの、その左が夫精四郎
子供の肩に手を置いているのがうめの、その左が夫精四郎

〔作品〕 戦前作の木地下は吉太郎の晩年と同様、藁科茂・梅津春雄等であるがいづれよって挽かれたものかの判別は不可能である。うめのと吉太郎の描彩も見分けがつかないくらい似ているが、うめのの胴模様が幾分楷書体のようである。

〔25.1cm(昭和17年頃)(庄子勝徳)〕
〔25.1cm(昭和17年頃)(庄子勝徳)〕

昭和39年に川上克剛、昭和44年には箕輪新一の依頼で吉太郎型を描彩したものが、現在残っている戦後の作の大半である。なお、川上手は長岡要一、箕輪手は梅津春雄の木地による。一般的に川上手は丸頭・なで肩の形状、箕輪手の面描は眉がやや「八の字」の形状で一般型に近い表情である。

〔17.7cm(昭和44年)(橋本正明)〕
〔17.7cm(昭和44年)(橋本正明)〕箕輪新一依頼の吉太郎型

〔伝統〕 山形系(作並系)

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