佐久間常雄

佐久間常雄(さくまつねお:1906~1996)

系統:土湯系

師匠:佐久間由吉/佐久間米吉

弟子:

〔人物〕 明治39年9月10日、佐久間常松、ミノの二男として土湯下ノ町に生まれた。父常松は湊屋佐久間浅之助の三男、浅之助ゆずりのデコをよく描き、凧絵も得意であった。湊屋離散とともに明治39年11月北海道開拓民として家族を連れ渡道、上川郡士別停車場前にて運送業を開業したが、大正5月11月25日40歳で没した。常雄は母ミノとともに同年12月中旬に福島に帰った。母ミノは亡常松の弟佐久間米吉(浅之助六男)と再婚したので米吉が常雄の継父となった。大正7年12歳よりニケ月間伯父由吉(浅之助長男)について木地を修業したが、間もなく転業、鉄工所勤務、鉄工所経営、自動車修理業などに従事した。昭和12年9月応召、昭和15年11月応召より帰還後、米吉に木地の手直しを受け、昭和16年1月より福島市曽根田古館にて木地業を再開、「佐常木地屋」と名乗った。この「佐常木地屋」は小幡福松の木工所の斜め前に位置した。戦前の常雄のこけし製作期間は、昭和17年10月徴用に応じるまでのこの曽根田時代のみである。昭和20年8月徴用より帰り、福島市栄町で「佐常木地屋」再開したが、昭和22年転業し佐久間工業所を経営、長く木地業から離れた。栄町時代は植木人形店から頼まれた新型の木地が主であり、本来の常雄のこけしは製作していない。昭和46年木地業再開を決意して準備を進め、昭和47年1月より福島市泉字大仏にてこけし作りを再開した。昭和48年から佐久間米吉型、昭和52年ころから佐久間由吉型、昭和56年ころから浅之助型も作るようになった。後に飯坂町平野に転居、晩年は長く休業状態であった。
平成8年5月18日没、行年91歳。
初出文献は〈こけし・人・風土〉、経歴、作品は〈木でこ・53〉(中屋惣舜)、〈こけし手帖・134〉(橋本正明)に詳しい。

〔作品〕 常雄が昭和16年初めてこけしを作るにあたって、継父米古は「常松のこけしはこのようなものであった」と見本を二本製作、常雄はそれを範としたという。昭和16~17年の戦前作は製作本数1,000本の多きにのぼるというが、実際に古品市場に出る本数は必ずしも多くない。運筆ぎこちなく、表情固いが、古拙かつ古雅である。中屋惣舜はこの古雅を愛し、〈こけし辞典〉執筆の際は、常雄を訪ねて詳細な聞き書きを取り、熱を入れてこの項目を担当したので鹿間時夫が驚いた程だった。
下図は中屋旧蔵の昭和17年作であるが、同じ時期の作例としては〈愛こけし〉の植木旧蔵がある。中屋惣舜は「常雄のこけしは米吉こけしに似た情味のあるもので、眼点を入れぬこの二筆の目は、良く湊屋のでこの表情を継承して古雅である。」と好意的な評価をしていた。

戦前の佐久間常雄作
〔18.0cm(昭和17年3月)(中屋惣舜旧蔵)〕

戦後は昭和47年ころから、こけし製作を再開した。東京のこけし店大木などにも作品が出る様になった。復活初期の作は稚拙な描彩であったが、それなりに味わいのあるこけしであった。


〔 12.0cm(昭和47年4月)(橋本正明)〕

米吉型や由吉型も依頼により製作するようになった。

〔24.0cm、21.3cm(昭和48年)(橋本正明)〕  左は米吉型
〔24.0cm(昭和47年12月)、21.3cm(昭和48年7月)(橋本正明)〕  米吉型


〔 21.0cm(昭和54年)(橋本正明)〕 由吉型

昭和56年ころからは佐久間浅之助型も作る様になった。面描細く鋭く、溌剌とした浅之助型であった。


〔18.5cm、18.5cm(昭和56年9月)(矢田正生)〕 浅之助型

 常雄の昭和47年の復活以降の作品は、矢田正生著〈わたしたちの 佐久間常雄〉(平成29年3月〉に体系的に紹介されている。

系統〕 土湯系湊屋系列

[`evernote` not found]