桜井昭二

桜井昭二(さくらいしょうじ:1927~2011)

系統:鳴子系

師匠:桜井万之丞/大沼岩蔵

弟子:桜井昭寛/五十嵐勇/遊佐恭雄

〔人物〕 昭和2年1月1日、鳴子の木地業桜井万之丞・コウの長男に生まれる。戦前の学校時代より、こけしの描き方は母コウに習って行った。〈鴻〉によって昭二の存在は既に紹介されていた。昭和20年3月鳴子高等小学校卒業後、中山平の伯父大沼岩蔵について2年間木地を学んだ。その後家に戻って、足踏みロクロでこけし等の製作を始めた。父万之丞は、当時尿前で横木専門に挽いていたが、時々家に戻っては、こけしの挽き方・描き方を昭二に教えた。伯父の大沼甚五郎からも挽き方は習った。昭和25年頃に、土産物店「さくらい」を開店し、店の一隅にロクロを据えた。昭和29年、〈こけし・人・風土〉で作品が写真紹介された。
こけしを挽き始めて4,5年くらいたって、自分の意思で本格的に大沼岩蔵型を作るようになった。岩蔵とともに大沼岩太郎から木地を学んだ庄子永吉の型は、土橋慶三の勧めで昭和35年頃より作るようになった。その後、父万之丞、母コウ、伯父甚四郎の型も作った。
昭和30年代から40年代にかけての戦後のこけしブームと言われた時期には、岡崎斉司遊佐福寿大沼秀雄高橋正吾とともに鳴子の「若手五人組」と呼ばれ、新しい世代の中心として活躍した。こけし祭りでパレードのアトラクションが行われた時には、惟喬親王の役に選ばれた。

惟喬親王に扮する桜井昭二

惟喬親王に扮する桜井昭二

弟子には五十嵐勇、遊佐恭雄がいる。また長男の昭寛も昭和47年より、木地の修業を始めた。
晩年になっても、鳴子で毎年開かれる「全国こけし祭り」には積極的に参加して、コンクールの競作にも出品を続け、また会場では亡くなる半年前にも足踏みロクロの実演をした。戦後の鳴子の基盤を築き支えた功績は大きい。東日本大震災の直後、平成23年3月21日に亡くなった。行年85歳。

桜井昭二 昭和41年4月
桜井昭二 昭和41年4月  二女の初登校の朝

桜井昭二 平成22年9月 こけし祭り会場
桜井昭二 平成22年9月 こけし祭り会場(亡くなる半年前)

〔作品〕 初期は、万之丞・コウの様式を忠実に写すことから始めている。作り始めのころから描彩は巧みだった。

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〔右より 25.9cm(昭和17年頃)(鈴木康郎)、21.8cm(昭和17年頃)(田村弘一)〕

昭和26年頃から大沼岩蔵のこけしを意識するようになり、自発的に岩蔵型の研究を始めて製作を開始した。大ぶりの頭の中央に、一筆目で可憐な表情を描く昭二の岩蔵型は、当時、一様なスタイルの枠に閉じ込められていた多くの鳴子こけしの中で、清新であり、際立っていたので人気が高かった。昭和35年頃から作り始めた庄司永吉型も、各種の永吉に取り組んで、その作風を体得したので、岩蔵型とは違った永吉の持ち味を表現し得て安定した作品を作り続けることが出来た。
昭二自身は若いころ古い仏像に魅かれ、飛鳥や奈良の仏像の写真集を好んで眺めていた。その究極の表情を、こけしにおいて追究し続けたように見える。

〔右より 18.5cm(昭和43年3月)庄司永吉型、28.0cm(昭和55年)大沼甚四郎型、 18.0cm(昭和44年7月)桜井万之丞型(橋本正明)〕
〔右より 18.5cm(昭和43年3月)庄司永吉型、28.0cm(昭和55年)大沼岩蔵古作復元、
18.0cm(昭和44年7月)桜井万之丞型(橋本正明)〕

昭和40年代になると、甚四郎、万之丞の型にも取り組んだ。また日本こけし館深沢コレクションで、古作の研究なども行っていたようである。

〔右より 17.7cm(昭和49年9月)岩蔵型地蔵型、27.0cm(昭和46年12月)万之丞型、30.3cm(昭和50年12月)永吉型、22.3cm(昭和41年)永吉型(橋本正明)〕
〔右より 17.7cm(昭和49年9月)岩蔵型地蔵型、27.0cm(昭和46年12月)万之丞型、
30.3cm(昭和50年12月)永吉型、22.3cm(昭和41年)永吉型(橋本正明)〕

〔30.0cm(平成17年)(橋本正明)〕
〔30.0cm(平成14年)(橋本正明)〕深沢コレクションの岩蔵を写した型

古作の研究と新しい型への挑戦は、亡くなる直前まで止むことはなかった。80歳を過ぎた作品でも瑞々しい魅力に満ちていた。
一方で、地蔵型や、うてらかし(ビリカンナ)を駆使した小寸変わり型、ねまりこなど遊び心一杯の作品も数多く作っている。

昭二の小品

昭二の小品

「ひいな」という雛人形の対の作品を発表したこともあった。
多才で技術的にも優れ、同時にこけしを深く地道に追求し続けた工人だった。

〔伝統〕 鳴子系岩太郎系列。