佐藤友晴

佐藤友晴(さとうともはる:1916~1946)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤松之進

弟子:

〔人物〕 大正5年3月15日、遠刈田新地の木地業・製炭業 佐藤松之進、あきの末子五男に生まれた。母のあきは伊具郡西根村の日下富治の三女。長兄松太郎、好秋が次兄、好秋との間に進、正人の二人の兄があり、少年のころより兄たちと共に柄杓や雑器を挽いた。木地技術は主として次兄好秋より習った。
昭和10年11月21歳のとき七日原の運蔵と剣道試合で頭を強打されたのが原因で眼病となり、病床に臥せることが多くなった。昭和13年24歳のころからようやく快方に向かい、こけしを製作が出来るようになった。最初は兄好秋木地に描彩していたが、やがて自挽きで精力的に作るようになり、さらに松之進の木地下を挽いたり、他の遠刈田の難物作者の木地下を挽くようになった。
この時期、好秋の下には我妻吉助我妻市助大宮正男などが職人あるいは弟子として木地を挽いていた。年少の我妻市助は、おそらく友晴の影響を受けている。
友晴のこけしの最初の写真紹介は〈こけしと作者〉で、その解説には「オットリとした中に創作的な煌きを示している」とあった。
昭和16年3月宮城県巡査試験に合格し、仙台市川内の警察練習所で教育を受けて、遠田郡涌谷警察署に配属となった。昭和19年8月結婚、20年2月警部補試験に合格、仙台北署特高課に配属、そして同年5月に応召となった。横須賀海兵団に入団したが、まもなく肺を病み長野県諏訪海軍病院に入院した、8月腸結核と診断、11月に連絡を受けた家族が実家に連れ戻した。
翌昭和21年1月4日没。行年31歳。
直助の一子秀一と並んだ当時新進の工人であったが惜しくも夭逝した。

山の木地屋には当時珍しいほどの文学青年で、向学心に燃え白石の菅野新一の調査にたえず協力し、また手記日記、俳句、短歌、詩などを多く残した。その遺稿は〈遠刈田新地青根の木地業とこけし〉として死後10年の昭和31年5月、高松の秋田亮により出版された。またこれを増補して昭和36年〈蔵王東麗の木地業とこけし〉として未来社より出版された。ともに菅野新一の後援があったとはいえ、木地屋の子弟としては異例のことであった。同地方の木地業史、木地技術、社会風習、民俗資料などを詳細にわたり克明かつ具体的に記してあって、今日でもその資料的価値が色褪せることはない。

昭和15、6年当時、友晴に最も傾倒した収集家は名古屋の山下光華で、友晴生涯の最大のファンであった。友晴のこけしをその初作から終作までほぼ各月ごとにそろえて、その成長と心の動きを追っていたらしい。山下光華は戦災のため一夜でコレクションを焼失した。そしてこけし界から去ったが、「友晴も死んでしまい、あのコレクションはもう二度と出来ない」というのが理由だったらしい。
こけし工人友晴は、やや神経質で反応きわめて早く内省的、また芯から真面目なハムレット型であったという。

友晴が〈蔵王東麗の木地業とこけし〉によせた「作者のひとりごと」には、下記に引用するように、こけし製作とくに描彩の心理を縷々叙述しており、他の工人に類例を見出すことは難しい。鹿間時夫は「数百人に達するこけし工人中でも、陸離として異彩を放っている。〈こけし辞典〉」と賞賛した。

「作者のひとりごと」
”きぼこを作るということは、単に材料をロクロに掛けて挽いて、これに色を塗るというよりも、むしろ、その奥に潜み、奥に働く心の力が、それを生み出すことにあると思う。この陣痛的な心理は、あの単純素朴な木偶に秘められて、絶えず自分に呼びかける何物かとなり、他にも働きかける要素となるものである。一本のきぼこでも、それを作る場合、自分の把握する心を試験されるような気がしてならない。きぼこに対する心の深浅と尺度とはただちに具象化して苦楽の対象となり、心の渋面は無形の圧迫となって、息苦しくさえなることがある。……私は常にかけ離れた理想と憧憬の世界を夢見る。心に描く偶像と、作り得る現実のきぼこが、掛け離れておればおるほど、悩みもまた大きい……(佐藤友晴記)”

佐藤友晴 昭和15年
佐藤友晴 昭和15年

〔作品〕こけしの製作時期は昭和14年から16年の初めまで極限られた期間であった。

 


〔25.6cm(昭和15年)(ひやね)

佐藤友晴 深沢コレクション 18.5cm
〔18.5cm(昭和15年)(日本こけし館)〕深沢コレクション 

佐藤友晴  深沢コレクション 12.4cm
〔 12.4cm (昭和15年)(日本こけし館)〕深沢コレクション 

〔伝統〕遠刈田系吉郎平系列 松之進家

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