西山憲一

西山憲一(にしやまけんいち:1920~2003)

系統:土湯系

師匠:西山勝次

弟子:西山敏彦/西山英子/徳永慎一/梅津正永

〔人物〕 大正9年6月13日福島県土湯温泉木地業西山勝次・キクの三男に生まれる。昭和10年高等小学校卒業後、父勝次について木地を修業、こけしの製作は戦後の昭和22年頃より行うようになった。名前は〈鴻〉の時代より知られていたが、写真による紹介遅く、〈こけし・人・風土〉第145図の昭和28年頃の作である。
昭和33年に福島祖佐久間貞義の勧めにより、勝次・作蔵・辨之助の型を作ったが、面白い作が生まれて一躍注目されるようになった。作蔵型は後に渡辺忠蔵渡辺恒彦ら山根屋の後継者が作るようになったので、憲一はその後ほとんど作っていない。
辨之助・勝次の型は継続して作っており、その時に応じて少しづつ味わいの違う作品を生み出した。憲一の復元は正確な写しというよりも、祖形を念頭に自分のこけしを作っていたので、その時の祖形のイメージ把握に応じで多様な作品が生まれたのであろう。
戦後、多くの土湯工人が太治郎をさらに甘美にしたようなこけし、鹿間時夫が「崩壊過程の土湯こけし」と呼んだような作品を作っていた中で、ほとんど憲一のみが古風な味わいを保っていた時期があり、今日の復活した土湯への橋渡しをした功績も評価すべきだろう。木地の弟子となりこけしを作ったものには徳永慎一、梅津正永等がいる。昭和57年頃より娘の英子が面描を行うようになった。平成7年からは三男の敏彦が弟子となって木地を学んで西屋の伝統を守っている。
平成15年11月18日没、行年84歳。

西山憲一 昭和40年

西山憲一 昭和40年

西山憲一 昭和41年

西山憲一 昭和41年

〔作品〕 昭和33年以前のこけしは、線が細く抒情的な童女のイメージを持ったこけしを作っていた。胴模様は強烈ではなく、淡く穏やかであり、赤・緑・紫・黄・桃色なども加えた甘い色調の物だった。佐久間貞義の勧めによる復元以後は、多くの辨之助、勝次の型を請われるままに次々に製作し続けたので、時に思いがけない佳品を生み出すことがあった。
昭和40年頃に足踏みから動力に変えたため、ロクロ返しの描彩がうまく行えず、復元で強いてロクロ返しを求められる場合、手描きで対応して不自然になったものなどもあった。
文献の写真を持参して復元を依頼する蒐集家もいたが、職人としての頑ななプライドを振り回さずに、求められるままに気軽に取り組む姿勢には、かえって純正の木地職人の姿を感じることができた。憲一のこけしの蒐集は、年代変化を議論するより、その時々の、出来の良いものを取り上げて楽しむべきものだろう。

〔20.2cm(昭和26年)(山田猷人旧蔵)〕

〔20.2cm(昭和26年)(山田猷人旧蔵)〕

〔右より 19.2cm(昭和40年10月)、19.0cm(昭和40年12月)、24.3cm(昭和43年7月)(橋本正明)〕 右2本辨之助型、左端天江蔵勝次復元

〔右より 19.2cm(昭和40年10月)、19.0cm(昭和40年12月)、24.3cm(昭和43年7月)
(橋本正明)〕 辨之助型

〔26.0cm(昭和46年2月)、18.7cm(昭和40年12月)(橋本正明)〕 勝次型

〔右より 18.7cm(昭和43年1月)辨之助型、26.0cm(昭和46年2月)勝次型(橋本正明)〕 

〔伝統〕 土湯系湊屋系列

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