脇本三十郎

脇本三十郎(わきもとさんじゅうろう:1901~1938)

系統:独立系

師匠:能代工業講習所挽物科講師

弟子:

〔人物〕明治34年、秋田県能代市清助町の米屋脇本三十郎の長男として生まれた。幼名幸広。兵隊検査の年に、四代目三十郎の名を継ぐ。木地は初代。大正7年に能代工業講習所挽物科に入学、同9年4月卒業と同時に、同校挽物専攻科に進んだ。翌10年3月、専攻科を卒業すると、4月より能代の阿部盛人(現在は東京で刀研師をしているという)の工場で、挽き物に従事した。日給80銭。当時、能代に木地専門の工場は4軒ほどにすぎなかったという。その後、各工場を転々としていたが、大正14年、独立して能代木工所を開設し経営を行った〈こけし手帖・78〉(野添憲治)。製品は主として、能代春慶の塗り下、菓子皿、吸物椀であった。薄物を挽く技術は能代一であったと言われている。弟子に弟の三千郎がいたが、木地業の将来に不安をもっていた三十郎は、昭和6年に弟を転業させた。三十郎は仕事に対して研究熱心な性格であったが、根をつめて働きすぎ身体をこわし、昭和13年6月16日、能代木工所のある清助町の自宅で没した。行年38歳。

〔作品〕三十郎のこけしは、弘前の木村弦三が紹介し、古い趣味家に少数割愛したものが知られているのみである。〈こけしと作者〉で初めて写真により紹介されたが、そのこけしは、肩が張って段があり、ロクロ模様で分けられた胴の上下に桜状の花が描かれているものだった。ホウ材の4寸8分である。このほかに、らっこコレクションにも5寸2分が一本あって、これには、「昭和11年木村弦三氏より古物恵与」と記録されている。以上から推定すると製作年代は、昭和5年より10年ころの一時期であり、こけしは試作の程度のものにすぎないと思われる。

〔15.7cm(昭和昭和5~10年頃)(らっここれくしょん)〕
〔15.7cm(昭和5~10年頃)(らっここれくしょん)〕

[伝統〕独立糸。三十郎のこけしは誰からの伝承か不明。最初に紹介した〈こけしと作者〉では、「温湯系」すなわち「津軽系」へ分類していた。また、形態などから鳴子の影響とする説、川連へよく行ったという弟三千郎の証言から木地山系、さらに湯沢の鈴木一家の影響とする説などがある。しかし、どれも推測の域を出ない。三十郎の経歴からは、こけしの正規の伝承も認められず、能代に古くよりこけしがあったという資料もないので、三十郎のこけしは地元趣味家の勧め、もしくは指導で三十郎自身が創作したものとみるべきであろう。現在、三千郎は木地と関係なく、能代のこけしは三十郎がごく短期間作っただけで終わった。

〔参考〕 脇本三十郎のこけしの祖形については、最近では〈うなゐの友・貮編〉(明治35年)24図右側の「奥州一の関のこけし這子」とする説が有力である。肩の段の形状、上下二段に描く胴模様など全く同一の様式である。もしそうであるとすれば、趣味家、ことによると木村弦三が〈うなゐの友〉を脇本三十郎に見せて作らせたものかも知れない。

明治44年5月15日発行うなゐの友・貮編、24図
明治35年発行〈うなゐの友・貮編〉24図 芸艸堂
右:奥州一の関の手遊ひこけし這子又おぼこといふ

[`evernote` not found]