佐藤三治

佐藤三治(さとうさんじ:1897~)

系統:肘折系

師匠:佐藤文六

弟子:

〔人物〕 明治30年9月10日、遠刈田新地佐藤文治・はるの次男に生まれる。佐藤丑蔵は長兄、佐藤誠次は弟である。明治43年4月丑蔵について山形県肘折に移り、肘折小学校に編入、同時に肘折にいた叔父の佐藤文六について木地を学んだ。翌44年小学校卒業後、及位の仙北沢へ行き、丸盆の荒取りなどをしたが、文六が肘折より及位に移って工場を建てたので、その工場で働いた。大正7年12月兄丑蔵がいた肘折に行き、尾形政治の姪留江と結婚、尾形の最上木工場の主任となった。この間、奥山喜代治、大津広喜などに木地の指導を行った。やがて第一次大戦後の不況の余波が肘折にもおよび、昭和4年秋に、尾形木工場は閉鎖となった。その後、肘折、及位、飽海郡南平田山谷などで木地を続けたが、不況の影響は大きく、ついに木地業を断念してブラジルへの移民を決意した。昭和7年3月18日サントス丸で神戸を出港、5月3日サントスに入港、農園労働者として各地を転々とした。昭和16年9月パラナ州アプカラーナに土地を取得、コーヒー園の経営を始めた。仕事の合間にブラジル紫檀などを材料に木地挽きを行ったこともある。昭和45年大阪万国博覧会を機に、妻留江とともに来日、遠刈田、肘折、山谷、及位等を回った。すでに鬼籍に入っているが没年に関して詳しいことはわからない。
佐藤三治(昭和45年・肘折にて)
佐藤三治(昭和45年・肘折にて)

〔作品〕 ブラジル移民前の作品で確認されたものは存在しない。ただ、「肘折時代に三越からの注文でこけしを送った」と言っていたから、その注文は、年代的には大正10年の「第9回児童博覧会」からのものであろう。古い蒐集家の蔵品中に混在しているかもしれない。昭和45年来日の際に作った数本のこけしが残っている。また帰国後ブラジルで、蒐集家の注文に応じて、足踏みロクロで作った自挽きのこけしが少数ある。文六、丑蔵、誠次と共通する雰囲気を持ったこけしであった。なお、昭和62年から平成8年頃までの間に某収集家(故人)がかかわっている偽物が相当数作られたので注意が必要である。

〔14.8cm(昭和45年)(庄子)〕
〔14.8cm(昭和45年)(庄子勝徳)〕
来日時、丑蔵の足踏ロクロで製作

〔24.5cm(昭和48年)(橋本正明)〕
〔24.5cm(昭和48年)(橋本正明)〕
ブラジル足踏みロクロ 胴底:通しカンナ

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〔右より 14.8cm(昭和49年)、18.4cm(昭和50年)(庄子勝徳)〕

 

〔伝統〕 肘折系文六系列