佐藤重松

佐藤重松(さとうじゅうまつ:1865~1918)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤菊治(遠刈田)

弟子:佐藤次郎/佐藤治平

浪江古こけし頭部

浪江古こけし頭部

〔人物〕 慶応元年6月29日、佐藤菊治長男として遠刈田新地に生まる。明治10年より父菊治につき木地修業、同18年田代寅之助につき一人挽きを学んだ。同年8月、田代と共に青根の丹野倉治工場の職人となった。ここで弟治平はじめ多くの工人に一人挽きの技術を伝えた。〈蔵王東の木ぼこ〉によると明治24年には文平と共に一時蔵王高湯で職人をしたこともあるというが、この期間の大部分は丹野工場で働き、明治29年10月には新地に引き上げた。その後、弟の次郎(明治21年8月2日生。菊治4男)と共に柴田郡川崎村大字今宿字道下に行き、農業をやりながら木地を挽いた。製品は、背負って笹谷峠を越えて運び、山形市七日町光明寺付近の店に卸していたという。大正7年5月22日、川崎村今宿で没した。54歳。

〔作品〕作品は従来未確認と言われていたが、近年では西田峯吉旧蔵の「浪江古こけし」が重松ではないかと言われている。このこけしは〈うなゐの友〉の貳編(磐城双葉郡浪江町邊のコケシ這子)および五編(磐城双葉郡浪江町の玩具こけし這子)で紹介されたこけしで、考古学者の大野延太郎が浪江で入手、清水晴風、林若吉の手を経て西田峯吉蔵品となった。現在では西田記念館に収蔵されている。
〈うなゐの友〉貳編の出版が明治35年12月であるが、清水晴風の手に渡った時にはすでに子供が遊び終えて時代色が付いており、金槌かわりに釘を打ったとみられる圧痕も多数認められるので、売られてから10年以上は経っているであろう。一方で、胴模様の上下にロクロ線が入っているから、一人挽き以前(明治18年以前)の作ではない。おそらく明治20年代初めのものと思われる。
面描形態は佐藤治平によく似る。ただし明治16年生まれの治平の年齢から、治平がこのこけしの作者であるとは考え難い。それゆえ、治平の18歳年長の兄で作品未確認の重松が作者ではないかといわれている。表情、描彩、木地の形から見て、重松作であっても不思議ではない。明治20年代初期であれば重松は20代の中頃になる。
ここでは伝佐藤重松として西田記念館蔵の浪江不明こけしを紹介する。

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〈うなゐの友〉に描かれた浪江こけし
〔25.0cm(明治20年代前半)(西田記念館)〕

系統〕遠刈田系周治郎系列

参考: 浪江の怪  

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