佐藤正男

佐藤正男(さとうまさお:1930~1999)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤治平/朝倉英次

弟子:

〔人物〕 昭和5年12月18日刈田郡宮村遠刈田新地の木地師、佐藤治平七男として生まれる。遠刈田国民学校卒業後実家で農業の手伝いをし、また徴用で働いたが、昭和21年より父治平につき足踏み轆轤で木地を修業した。同じ時期に北岡工場の見習工となり主に朝倉英次より木取り、鉋の作り方を習う。英次は昭和22年に仙台へ去ったが佐藤守正、高橋廣平らとともに引き続き北岡工場で共に働いた。昭和27年父治平が亡くなった後も北岡の職人を続け玩具中心に製作した。昭和30年から32年までは仙台市二十人町の朝倉英次方や東京方面で出稼ぎをしたが、以後は新地に戻り木地業に従事しこけし等を作った。昭和39年より隣家の佐藤文男の工場や北岡工場で働いたが、昭和41年に健康を損ね廃業。昭和42年より日産自動車横浜工場に勤務した。昭和60年12月に定年を迎えた後は郷里に近い白石市へ戻っていた。平成9年12月16日没、行年70歳。


佐藤正男 平成元年10月

〔作品〕 昭和32年頃より治平風のこけしを製作したが、まだ戦後の遠刈田一般の傾向を追ったこけしであった。


〔21.5cm(昭和36年頃)(高井佐寿)〕

昭和30年代後半より眉や上瞼にアクセントのある治平風の描彩を描くようになり、昭和40年には古い遠刈田の作で描かれる垂鼻を描くようになった。廃業後は昭和63年7月に大宮正男木地に数本描いたものが知られている。高橋五郎著〈佐藤治平と新地の木地屋たち〉の中で「治平の後継者」として紹介されていた。

〔23.8cm(昭和40年)(庄子勝徳)〕
〔23.8cm(昭和40年)(庄子勝徳)〕

〔伝統〕遠刈田系周治郎系列治平家。甥の正見が一時期、佐藤護につき木地修業をしているが一人立ちする前に転業しており、治平家のこけしは現在廃絶状態である。

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