阿部金蔵

阿部金蔵(あべきんぞう:1870~1932)

系統:土湯系

師匠:阿部善次郎

弟子:阿部広史

〔人物〕 明治3年8月11日福島県土湯村字上ノ町16の旅籠阿部善治郎・カネの長男に生まれる。父善治郎は阿部傳兵衛の長男で弘化4年6月14日の生まれ、旅籠上の松屋を経営し、また木地も挽いていたという。松屋の祖は文禄年間越後から土湯に渡ってきた村上氏の浪人阿部徳右衛門薩摩の祐筆阿部傳兵衛といわれ、土湯開村時のメンバーの一人である。
金蔵の下に安吉・政治郎・作治・兵助・忠次郎の弟がいる。木地挽きは幼時より、父善治郎について学んだが、明治18年4月16歳の時、土湯に来た膽澤為次郎より一人挽きの技術を習得した。
明治23年の水害で、上ノ町から下ノ町までを占めた大きな旅籠松屋も流されたため、旅館業を廃業し、木地業と炭焼業を専ら行うようになった。明治28年佐藤ミヱと結婚、明治31年長男広史誕生。広史の下に傳治・義雄・寅治・嘉七・定蔵と6男、さらに4女をもうけた。
明治40年膽澤為次郎が土湯を再訪した時には、金蔵はじめ当時の弟子たちが為次郎を囲んで一席をもうけ、翌朝餞別を渡して送ったという。
長男広史は大正3年ころから金蔵について木地を学び、家業を助けるようになった。
作者としての名前は〈こけし這子の話〉で紹介されたが、その時金蔵として写真に載ったのは阿部治助であり、阿部治助として写真に載ったのは渡辺作蔵だった。
金蔵のこけしが正しく紹介されたのは武井武雄の〈日本郷土玩具・東の部〉(昭和5年1月)である。
昭和5年頃中風になり以後は製作していない。昭和7年6月22日没、行年63歳。

阿部金蔵

阿部金蔵

〔作品〕 大正末期から金蔵名義のこけしは蒐集家の手に渡るようになったが、この頃すでに広史も木地を手伝っており、全てが金蔵の作か定かではない。
ただ、最初の文献〈日本郷土玩具・東の部〉で武井武雄が「華やかな可憐さ」と評したこともあって金蔵名義は当初から人気の高いこけしだった。

〔23.6cm(大正末期)(中屋惣舜旧蔵)〕
〔23.6cm(大正末期)(中屋惣舜旧蔵)〕

〔16.4cm(昭和初期)(西田記念館)〕
〔16.4cm(昭和初期)(西田記念館)〕

〔21.5cm(昭和4年)(橋本正明)〕
〔21.5cm(昭和4年3月)(石井眞之助旧蔵)〕武井武雄より送られたもの。

図譜金蔵
〔武井武雄〈愛蔵こけし図譜〉 阿部広史名義で扱われた金蔵〕

今日では、金蔵名義のこけしのうち金蔵作は確かにあるということで落ち着いているが、〈愛蔵こけし図譜〉当時は金蔵は存在しない、金蔵名義はすべて広史作だというのが定説だった。
〈愛蔵こけし図譜〉の解説で武井武雄は次のように書いている。
「阿部金蔵の作品はフジヤでも見当たらなかったし、『這子の話』の写真を見ると土湯中白眉と思われるし、欲しくてたまらぬので、金蔵宛交渉を始め、送って貰ったのが昭和4年3月、尺五級から豆級までこれは沢山に来着しました。見ると天江氏の写真に載っている金蔵とは似ても似つかぬもの、それもその筈写真の金蔵は治助だったのでした。金蔵は昭和7年63歳で物故した由ですが、4年当時は勿論金蔵の名で文通もし、物品も送ってきたので一応金蔵作として蔵品に加えおいたわけですが、飯坂同様父金蔵の作は世上殆どその姿なく、所謂金蔵は概ね息広史の作という定説に従い、この図譜で広史と訂正したわけです。昭和16年7月、石井氏の照会により広史の解答した父子の特徴は大体次のようなものでした。金蔵:胴模様に山型あり赤等を多く用いた。様式は二三に限られていた。櫻模様枝も花も細かくて多い。広史:太い線赤青黄紫等三本位にとどまる。細い線八本乃至十二本位迄にてその間に模様をかく。大体右の様なもので顔の特徴には全く触れて居らず、相似たものと思われます。確実な金蔵を持っている人が稀なのでこれ以上の比較は一寸出来ませんが広史だけについても古いものの方がよい事だけは確かな様です。あまり大作はヒョロ長くて均整がとれず、9寸(図右)あたりから8寸頃がよく、3寸(図左)の豆級華麗又可憐です。」

この文にあるように武井武雄と石井眞之助は金蔵・広史の鑑別についても文通で議論しており、その経緯もあって、ここでカラーで掲載した石井眞之助旧蔵は武井武雄から石井に送られたものだった。石井眞之助自身も金蔵からこけしを取り寄せており、それは〈古作図譜〉に箕輪蔵として載っている。

〈こけし辞典〉では、金蔵・広史の鑑別の決め手は頭のフォルムと前髪・カセ・眼の描き方であると中屋惣舜は言う。前髪は、金蔵が上から下に穂先が自然に割れるように描きおろしているのに対し、広史は前髪の割れを穂先が出ないようにキッチリ塗り込ん描く点が違うといわれている。

橘文策旧蔵 従来の前髪の鑑別では、左が金蔵、右が広史 しかし、この二本が本当に別人の作と判定できるか、疑問である
橘文策旧蔵の二本

橘文策旧蔵のこの二本は、従来の前髪の鑑別では、左が金蔵、右が広史となる。しかし、この二本が本当に別人の作と判定できるか疑問である。面描はほぼ同一のように見える。金蔵か広史かは、目鼻を描くときの運筆も見る必要があろう。前掲の中屋旧蔵、石井旧蔵の目鼻の描き方は、運筆堅く、鉛筆書きのような筆の運びをしていてかなり近い。一方、橘旧蔵の二本は運筆なめらかで、上下の瞼、鼻の描線は繊細でかつ正確である。こちらの二本はむしろ後の広史に通じるところもある。この橘文策の金蔵名義二本の判定は簡単ではない。前髪の描法は、斎藤太治郎が下端から揃えて書き上げる描法で人気が高くなったころそのスタイルを広史が真似して始めたのかもしれない。
このように前髪の運筆だけで鑑別するのは難しい。

〔伝統〕 土湯系松屋系列 金蔵ー広史ー計英と続いた系譜。

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