志田栄(しださかえ:1921~1997)
系統:鳴子系
師匠:志田五郎八
弟子:
〔人物〕 大正10年3月28日、山形県西村山郡大井沢村の農業・木地業志田善見(五郎八)の三男に生まれる。9人兄弟の8番目であった。昭和9年に小学校を卒業し、昭和13年頃より父五郎八の手伝いをするうちに自然に木地挽きの技術を身に付けた。
主に徳利の袴、盆、将棋盤の足、碁石入れなどを挽いた。こけしは近所の人に頼まれて作る程度で、数える程しか作らなかったと言っていた。昭和36年我孫子春悦が五郎八に手紙でこけしを依頼し、その年の11月に送られてきたが、それは栄が作ったものであった。
栄は旧態然とした五郎八の型よりも旅先で見た鳴子などのこけしを参考にしたと言っていたので、その影響が加わったこけしであった。
昭和40年代に入って、こけしの注文も来るようになり、昔風の大井沢のこけしが求められるようになったので、依頼により志田菊麻呂型も作るようになった。東京高円寺の民芸店ねじめで売られたことがある。
しかし、こけしの製作期間は必ずしも長くはなく、昭和40年代の後半になると殆ど休業状態であった。
平成9年4月15日没 行年77歳。
〔作品〕 我孫子春悦によって〈こけし手帖・45〉「大井沢その後」の中でこけしの写真とともに紹介された。そのこけしは鳴子の形に近いものであった。〈こけし辞典〉〈山形のこけし〉にその作例がある。
下に掲載した写真のこけしは、昭和44年に高円寺のねじめで売られた志田菊麻呂型。菊麻呂と似ていると言い難いが、細身の胴を重ね菊で埋める形態は、それなりに面白みがあった。
〔24.2cm(昭和44年3月)(橋本正明)〕菊麻呂型 ねじめ頒布
〔系統〕 鳴子風のものは鳴子一般型、菊麻呂型は蔵王高湯系に分類されるが、栄の菊麻呂型はむしろ独立系というべきかもしれない。栄の直接の後継者はいないが、志田菊麻呂の型は、菊麻呂の孫の志田菊宏が継承している。