小野寺正徳(おのでらまさのり:1948~2018)
系統:木地山系
師匠:小野寺徳一
弟子:三春文雄
〔人物〕 昭和23年6月13日、秋田県川連町大館の小野寺徳一長男としてに生まれる。
父徳一は小野寺藤美の弟虎之助の長男、藤美(幼名梅太郎)の妻カネは木地山小椋久四郎の姉である。小野寺家は代々続いた川連の蒔絵師であった。蒔絵師であった藤美(幼名梅太郎)がこけしの描彩を工夫し、前垂れの描法を始めたという。
正徳は湯沢北分校卒業後、2年間家業の塗師をやり、その後1年間椀木地を習った。
立木物は父・徳一に習い、昭和40年よりこけしも製作・描彩するようになった。
昭和44年に半年ほど東京で働いたが、その後大館に戻り椀木地を主に手がけた。
三春文雄がこけし作りを志したときに、描彩等の指導を行った。
平成17年5月には沼倉孝彦が秋田県こけし会で頒布した初作の木地を提供している。
亡くなるまで、ほぼ継続してこけし製作を続けた。
平成29年5月に東京こけし友の会の談話会が湯沢で開催されたときには企画に協力して参加した。
しばらく病気で静養していたが、平成30年7月24日に没した。行年71歳。
〔作品〕 〈こけし辞典〉掲載の昭和41年作は頭が大きく、描彩も稚拙で泥臭いところが見られる。
〔右より15cm、21cm(ともに昭和40年初作)、18.3cm(昭和41年頃)、18.9cm(昭和41年4月23日)(沼倉孝彦蔵)〕
沼倉蔵も〈こけし辞典〉と同時期の昭和40年、41年作で作風は類似する。
父・小野寺徳一のこけしと同じような前垂れの意匠であるが、戦後の徳一の作は正徳が描彩していた可能性がある。
沼倉蔵右より2番目の21cmは無署名。他は何れも「川連町 小野寺正徳」の署名。
右より3番目の18.3cmは初作とほぼ同時期かと思われるが、正徳本人によると、井桁は菊模様の後に作ったと言うことである。
平成後半になると目がぱっちりとした可憐な雰囲気のこけしを作るようになった。また古品の研究も行って木地形態や描彩も初期のものよりはるかに洗練された作品となっていた。
樋渡治一型や小椋石蔵型も製作した。
〔伝統〕 木地山系
〔参考〕