津田隆

津田 隆(つだ たかし:1959~)

系統:独立系

師匠:阿部進矢

弟子:

〔人物〕山形県鶴岡市で防水布店を経営する須藤萬寿夫、陽子の次男として昭和34年7月15日に生まれる。母の陽子は西田川群温海町の阿部常吉の三女、陽子の三才年下の弟が進矢である。隆は小さな頃より母の実家にはよく泊まりに行き、少し年下の従兄弟となる進矢の息子達と遊び、祖父常吉のこけしとも身近に育った。特に夏場の日本海での海水浴は想い出深く、進矢叔父の素潜りで採ったサザエは夕食の楽しみもあったという。素潜り名人の進矢は多い時で50個ものサザエを採ったとのことである。昭和57年3月、仙台の大学を卒業後に広告代理店に就職し仙台支店に勤務、昭和60年6月津田頼子と結婚する。その後、大阪本社、名古屋支店など転勤は多く、支店長も務めた。令和6年7月末に65才で定年退職した。進矢の息子達が家業を継がない事を知り、長い歴史を誇る「あつみこけし」を廃絶させてはならないと弟子入りを志願した。8月から徐々に修業を始め、9月には鶴岡の実家から平日はほぼ毎日工房に通って木地を挽き続けた。令和6年10月5日に「河北新報」、11月21日には「テレビユー山形」で修業の様子が取り上げられた。
また、津田隆の次女るりこもこけしの製作を始めており、今後の活躍が期待される。

津田隆

津田隆

〔作品〕こけし界への新人工人としての作品の紹介は。「木でこ」第258号(名古屋こけし会、令和7年1月12日発行)、「こけし山河」第330号(大阪こけし教室、令和7年1月26日発行)で行われた。現在も修業中であるが、大阪こけし教室第402回例会(令和7年1月26日)でデビュー作が頒布された。(写真①大阪こけし教室頒布6種類の模様)材料不足とこけし修業を優先させるために個別の注文は現在受けることが出来ないとの事であるが、5月3日からの第67回全日本こけしコンクールに進矢師匠と共に招待工人としてこけしを販売する予定である。師匠の進矢は隆の自主性を重んじた指導をしていて余分な口出しをしない様に努めている。進矢の木地玩具や帽子こけしは蒐集家の垂涎の的であり、隆も技術の向上を目指し努力している。


〔右より13.1㎝(令和6年12月)、14.3㎝(令和6年12月)、14.1㎝(令和7年1月)、14㎝(令和7年1月)、14.7㎝(令和7年3月)、14.6㎝(令和7年3月)(中根巌)〕

系統〕独立系

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