山本俊一(やまもとしゅんいち:1949~)
系統:作並系
師匠:平賀貞蔵
弟子:
〔人物〕 昭和24年6月24日、山本豪(つよし)(大正13年1月生、平成12年6月77才逝去)、小染(大正15年3月生、令和元年12月94才逝去)の5人兄弟の次男として仙台市青葉区作並に生まれた。母、小染は代々作並在住の家系で栗駒町出身の豪を婿に迎えた。豪は仙山線の保線に関わる仕事に就いていた。俊一は昭和43年3月に東北高校卒業後、機械販売会社に勤め、昭和50年に作並駅前で父、豪が開店した「山本工芸店」を休日に手伝った。店では人生の師匠と仰ぐ、平賀貞蔵のこけしを中心として販売した。当時、貞蔵は人気工人、しかも足踏み轆轤で挽いていたので製作数は少なく入手困難であったが、親の代からの親密な付き合いもあったので、山本工芸店には優先的に回してくれた。父の豪が鉋を駆使して欅と槐を使い制作した三本脚の花台とコースターも好評であった。昭和58年5月に貞蔵が倒れ入院したので、工人になる事を決意。昭和59年に会社を退職して同年10月より狩野安志に弟子入りした。狩野安志は、貞蔵の長女、君子を嫁に迎えた腕の立つ工人であったが、こけしの製作数は少なかった。入門から5年6ヶ月後の平成2年5月の第32回全日本こけしコンクールに出品してデビューを飾った。自分の店で販売するだけで、卸売は一切しなかったので、師匠同様に一般には出回っていない。
令和2年に肺の病気になり手術、現在も治療中である。体力が回復せず、こけしの復活には至っていない。
貞蔵には、息子の貞夫のほかに早坂伝吉、狩野安志の2人の弟子がいたが、貞夫も2人の弟子も既に逝去している。伝吉の弟子が早坂晃、安志の弟子が山本俊一で2人とも健在ではあるが廃業して久しい。
〔作品〕
写真右端の3寸は平成2年7月名古屋こけし会お土産こけしで、初作に近い。写真右から2本目8寸と3本目6寸3分は平成10年1月に俊一より送って貰った作品である。右より4本目6寸は平成12年作、デビュー当時と変化は感じない。貞蔵、安志とは異なるおどけた表情の俊一の個性が出たこけしと云えよう。左端は欅材の「幸卵」(こうらん)平成12年作。幸卵は狩野安志が意匠登録した、めでたい木地玩具で結婚、出産、新築祝い等に使われた。弟子の俊一も制作を許され僅かに作った。父親同様に轆轤を使わず、鉋を使い花台やコースター等の木工品も制作して店に並べた。こけしは平成12年、第42回全日本こけしコンクールまで11年間出品した。平成13年に廃業して、その年から令和元年、70才までセキュリティ関連の仕事に就いた。廃業後は平成14年の第44回全日本こけしコンクールに一度だけ出品している。「鳴子」「山形」のコンクールには一度も出品していないという。
〔伝統〕作並系
〔参考〕
- 中根巌:山本俊一のこと〈木でこ・255〉(令和6年7月)