瀬谷スイ

瀬谷スイ(せやすい:1927~)

系統:土湯系

師匠:瀬谷重治

弟子:

〔人物〕猪苗代町のこけし工人瀬谷重治の妻女であり瀬谷幸治の母親。こけしの描彩を行い、頒布されたこともあったが余り知られていない。
 スイは昭和2年2月9日、佐藤左右輔(そうすけ)、ヨシの八人兄弟の第八子(男四人・女四人)として郡山市安積町日出山に生まれた。佐藤佐右輔家は祖父の平右衛門、父の保太郎から続く庄屋の家柄で、地域の代表として役所への書類、文書などの作成も行っていた。スイは郡山市で学業を終え、仕事に就いていたが、昭和26年に瀬谷重治と結婚し、幸治、恵子、隆、知子の二男二女を設けた。幸治が物心ついた頃には重治は近くの阿部製材所で働いていたが、幸治が中学生になった頃会津若松の荒川木工所に三年程出稼ぎに出て不在、スイが子供達の支えとなっていた。昭和44年から重治がこけし作者としてデビューし独立すると忙しくなり、スイは木取り、胴模様の絵付けなども手伝うようになった。幸治が東京のサラリーマン生活から戻った昭和47年4月にはスイは内職として木ベラの製作も盛ん行っていた。高齢になってからは施設に入所した。
 スイはしっかりした気丈な性格で、何事も嫌がらずに人のために動く、優しい人柄との世評があった。
こけしに関しては重治と共同作業をしていた夫婦であったと言えるかもしれない。
重治の三番目の弟子であった根本秀一にはスイの描彩の指導があったかもしれない。秀一は昭和24年10月30日生まれで昭和56年32才の時に重治に弟子入りした。師匠が紹介した他所の木地屋で長く勤めたこともあり木地技術は優秀だったらしい。描彩の指導が半端の中で重治は他界した。平成20年頃西会津町で安座工房を任されるが長く続かなかった。その後、仙台市若林区に引越したが、難病を発症しこけしデビューにまでは至らなかった。
 重治の没後、瀬谷工房では幸治の弟子となる遠藤忠、半澤政則、坂本恭啓、関根由美子が通い、その後さらに三人程の新人が入って活動を継続している。

瀬谷重治とスイ

〔作品〕下掲写真右端のこけしは平成26年に中古品として東京のこけし店に出たものであるが、幸治によれば木地形態等から昭和47年前後の作品ではないかという。表情の筆は走り、胴模様も達筆である。青坊主のアヤメ模様、重治型なので髪飾にリボンを描いている。幸治が帰郷後、三年程知人に林業の指導を受けていた時期と重なり、この頃のスイのこけし描彩については全く知らず、今回初めて知ったとの事である。下掲写真左端のこけしは「こけしと語ろう会」の平成10年4月25日例会で頒布されたスイの作品(遠藤忠蔵)。右端のこけしと同様に木地は重治である。こけしと語ろう会会員の故大橋典夫がスイに懇願して何とか頒布に至った貴重な作品。大橋典夫は重治の姉、イチの子息で幸治とは従兄弟の関係だった。このとき18本描かれたスイ名義のこけしは地元のこけし会でのみ頒布された珍品となったが優作であった。その後もスイは重治の胴模様の絵付けを手伝ったが、本人名儀のこけしを残す事はなかったようである。


〔右より 21.0㎝(昭和47年ころ)(中根巌)、24.4㎝(平成10年4月)(遠藤忠)〕スイの描彩

〔伝統〕 土湯系中ノ沢亜系

 

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