斎藤弘道

斎藤弘道(さいとうひろみち:1930~)

系統:土湯系

師匠:佐藤正一

弟子:渡辺等/陳野原和紀/斎藤とみ/斎藤僚子

〔人物〕  昭和5年8月8日福島県土湯の製炭業斎藤幸太郎・エキの長男に生まれる。父の幸太郎は斎藤太治郎とその妻であった会津屋の娘たまとの間の長男。従って弘道は太治郎の直系の第一孫にあたる。昭和20年3月土湯尋常小学校を卒業した。卒業後は主に山仕事などをしながら木地玩具製作を試みていたが、昭和29年の土湯の大火の後、こけし製作を志し、 昭和30年より叔母きみの夫である佐藤正一について正式に木地の修業を開始した。昭和31年6月より自分のこけしを発表するようになった。昭和33年頃より太治郎の作風を追求した作品を作るようになり、太治郎こけしの後継者としての地位を固めた。
こけしを作るようになってからも木地玩具を好んで製作、車人形、臼、えじこ、独楽など多様な作品がある。
昭和34年宍戸とみと結婚、三人の娘を得た。妻とみは理髪業を営み、弘道自身も理容師の免許を取得した。理容業の傍らこけし製作を続けた。
渡辺等は昭和41年から、陳野原和紀は昭和42年から、斎藤弘道について木地を学んだ。昭和54年から妻女とみ、また昭和57年から次女僚子も弘道に習って面描を行うようになった。

斎藤弘道 昭和40年
斎藤弘道 昭和40年

斎藤弘道 平成25年
斎藤弘道 平成25年

弘道は80歳を過ぎても、ごく小さな独楽がいくつも入ったえじこなど手先のこまかい仕事を苦にせずに行い、またそれを楽しんでいるようでもあった。
平成27年4月になって、高齢のためこけし製作を廃業した。その後、長女富士子と同居することなり、福島市町庭坂に移った。

〔作品〕 昭和31年が初作というが、その作品はあまり多く知られていない。こけし千夜一夜物語によると平成21年の土湯こけし祭りのポスターに使われたこけしが昭和31年作の弘道だという。
多く作品が残るのは昭和33年頃からであるが、これは東京こけし友の会の〈こけし手帖・22〉(昭和33年8月)「こけし界ニュース」で、斎藤弘道が独立して製作を開始したことを報じ、写真紹介したことが一つの契機になったと思われる。
製作開始当初のこけしは太治郎というよりは木地の師匠佐藤正一のこけしに倣ったもので、表情も目尻両端が開いて、あどけない童女風のこけしであった。
やがて太治郎のこけしを研究し、正一のこけしよりも太治郎に近い表情に変わっていったが、この辺の過程に就いて鹿間時夫は〈こけし手帖・25〉〈こけし 美と系譜〉〈こけし辞典〉の弘道の項目で、積極的な評価を行っている。例えば「それにしても、この作者は隔世遺伝というのか、太治郎にあまりにも似ている。正一のあの血のにじむような努力によって作られたこけしも、この天才児の表情は出ないのである。それは血液の差なのだから仕方がない。〈こけし手帖・25〉」とまで書いていた。鹿間時夫は、弘道が太治郎後期の婀娜な表情を再現できたことを喜んでいた。

〔右より 15.2cm(昭和33年頃)、17.7cm(昭和34年)、18.6cm(昭和36年)(高井佐寿)〕
〔右より 15.2cm(昭和34年頃)、17.7cm(昭和34年)、18.6cm(昭和36年)(高井佐寿)〕

このころまでの弘道は太治郎の主に後期のこけしを対象に研究していたので、昭和42年9月5日に〈こけし這子の話〉掲載の極初期の太治郎作の写真を土湯に持参して復元を依頼した。出来た作品が下の写真の21.6cmである。

〔22.0cm(昭和42年9月)(橋本正明)〕 〈こけし這子の話〉の斎藤太治郎の復元
〔21.6cm(昭和42年9月)(橋本正明)〕 〈こけし這子の話〉の斎藤太治郎の復元

眼点は小さくキリリとして緊張感があり、正末昭初の太治郎の、品格高く、完成された作風をよく写していた。これを契機に鹿間好みの婀娜っぽい表情は消えて端然とした少女の表情になり、斎藤弘道の作風は大きく変わっていった。
昭和50年以降になると眉の外側や、目尻が下がる傾向が出て、やや剽軽な表情になる。
斎藤弘道の年代変化および作品鑑賞は、〈木の花・30〉の矢田正生稿に詳しい。

系統〕 土湯系

〔参考〕

[`evernote` not found]