鈴木活子(すずきいくこ:1941~)
系統:山形系
師匠:鈴木安太郎
弟子:
〔人物〕建具と木工業を経営していた鈴木安太郎、タケノの5人兄妹の末っ子として昭和16年9月21日に寒河江市本町で生まれた。鈴木家は代々大工の棟梁をしていた家系であるが、安太郎の父米太郎が山形の小林倉治に師事して木地業を始めた。活子の母、タケノは東村山郡中山町長崎から安太郎に嫁いだ。長兄は家業の建具業を継いだ晃悦である。晃悦には双子の弟、賢悦(けんえつ)がいて第三子、第四子が女、第五子が活子で二男三女の兄妹だった。晃悦、賢悦共に旧制の山形県立寒河江中学校卒業後、晃悦は米沢高等工業(現在の山形大学工学部)賢悦は山形高等学校(現在の山形大学人文社会科学部)に進学した。活子は女学校卒業後に家業の手伝いを行い、19才から裏千家の茶道修業を始めた。昭和44年27才で指導者となり現在も生徒に稽古を続け、都合200人を超える弟子を育成している。
活子は木地の修業は行わなかったが、昭和44年頃から父安太郎の木地などに描彩を行うことはあった。27才から安太郎木地に描彩を施し知人や生徒への結婚祝いや新築祝いのおめでたい人形として心を込めて描いた。本人の記憶では20本前後ではないかとの事である。噂を聞きつけた好事家とこけし店から熱心な注文が入ったが、市販する気はなかったので応じる事はなかった。活子は安太郎と安太郎の妹夫婦と4人で「名古屋こけし会」の第7回例会に参加したことがあった。この時、鈴木鼓堂、川口貫一郎の深い話に感銘を受け。また名古屋こけし会の可部忠雄よりこけし製作の熱心な誘いもあったらしい。こうした経験が契機となって最初にこけしを描いたのは昭和44年、活子27才の時であった。安太郎の勧めもあってで3本描いた事を覚えていた。筆を取るのは晃悦より半年程早かった。
〔作品〕継続的に描彩を行ったわけではないが、機会に応じて80代までの描彩は残っている。
〔右より昭和44年(27才)17.7㎝、昭和47年4月(30才)24.6㎝、平成12年4月(58才)30.7㎝、令和6年9月(83才)24.5㎝〕
〔系統〕 山形系