平賀謙次郎

平賀謙次郎(ひらがけんじろう:1918~2012)

系統:作並系

師匠:平賀謙蔵

弟子:平賀謙一、平賀輝幸

〔人物〕 大正7年11月17日、宮城県作並の木地業平賀謙蔵の二男に生まれる。 多蔵は長兄である。昭和5年3月より父謙蔵について木地の修業を始める。翌昭和6年尋常小学校を卒業後、本格的に木地業に取り組む。兄弟弟子に兄の多蔵がいる。昭和12年頃から、父謙蔵が痛風を病み、足踏みロクロでの作業が困難になったので、謙蔵のこけしの木地を挽いた。昭和13年4月に独立したが、翌14年2月に応召し、日華事変に送られたが、昭和16年に無事帰還することが出来た。昭和17年12月山形市上桜田の船越しげと結婚。以後、作並でこけしや玩具を作り続けた。
長く足踏みロクロを使っていたが昭和30年より電動ロクロに変わった。
弟子には長男謙一、孫の輝幸がいる。性格は几帳面で、律義な工人だった。
平成24年2月14日没、行年95歳。

平賀謙次郎 昭和46年2月

平賀謙次郎 昭和46年2月

〔作品〕 謙次郎名義でこけしを出すようになったのは昭和16年7月からである。しかし、こけしの木地は極初期のころから挽いていた。昭和6年8月に仙山線が愛子から作並まで延長され、仙台まで通じたときには、記念品の4寸ほどのこけしを大量に作り、謙次郎もそれに加わったことを話していた。
初期のこけしは謙蔵のこけしを忠実に継承した作風だった。戦前作並には、謙蔵、兄多蔵、叔父貞蔵、従兄弟の貞夫が居て、時には同時に製作していたので、しばしば混同される。
作者の鑑別は、〈鴻・11〉や〈こけし研究ノート〉で議論されている。

〈こけし研究ノート・Ⅰ-NO.4〉 平賀一家の鑑別法

〈こけし研究ノート・Ⅰ-NO.4〉 平賀一家の鑑別法

〔右より 21.0cm(昭和13年)、25.5cm(昭和16年)(久松保夫旧蔵)〕
〔右より 21.0cm(昭和13年)、25.5cm(昭和16年頃)(久松保夫旧蔵)〕

久松保夫旧蔵のうち右端は謙蔵の表情に近く、本人名義で描彩をし始めてあまり間のない時期であろう。20歳前後の作と思われるが、既に完成度は高い。左端は、上瞼の両端が著しく下がり、謙次郎の個性がより強く表れたころの作品である。このこけしと下の深沢コレクションのものは〈鴻・11〉に紹介されたころの作風に近い。

〔26.0cm(昭和16年)(深沢コレクション)〕
〔26.0cm(昭和16年)(深沢コレクション)〕

戦後は眉、目じりが下がって、 短い両鬢の外側が湾曲した甘い作風に変わった。胴も太いものが多い。昭和20年代の終わりから謙蔵の型を時々作るようになったが、まだこの頃の謙蔵型は戦後の本人の筆法からなかなか離れられていない。

〔28.7cm(昭和26年8月)謙蔵型の初期、19.0cm(昭和45年)(橋本正明)〕
〔右より 28.7cm(昭和26年8月)謙蔵型の初期、19.0cm(昭和45年)(橋本正明)〕

昭和40年代に父謙蔵の古いものを復元し、東京こけし友の会等で頒布された、また謙次郎本人の戦前作の復元も行った。、そうした復元作は、昔からの伝統的な姿に戻って、かなり見るべきものがあった。

〔右より 27.5cm(昭和46年3月)、29.4cm(昭和46年2月27日)(橋本正明)〕
〔右より 27.5cm(昭和46年2月)、29.4cm(昭和46年2月27日)(橋本正明)〕謙蔵型

〔26.0cm(昭和45年3月)(橋本正明)〕謙次郎戦前作の本人復元
〔26.0cm(昭和46年5月)(橋本正明)〕謙次郎戦前作の本人復元

〔伝統〕 作並系 謙蔵 -謙次郎 -謙一 -輝幸と系譜は継承されている。

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