小椋俊雄(おぐらとしお:1912~1948)
系統:木地山系
師匠:小椋米吉
弟子:
〔人物〕 明治45年2月16日秋田県川連村大館の木地師小椋米吉・ツメヨの次男に生まれる。長兄に勝雄がいる。〈こけし辞典〉では2月26日生まれとなっているが誤りである。大正4年米吉一家は北海道枝幸群原野に移住、大正7年に旭川市神楽町に移った。昭和4年18歳より父について木地を学び、家業を手伝った。父米吉が昭和10年に作ったこけしが石井眞之助によって〈こけし異報・9号〉で紹介され、米吉への注文が来るようになったので、俊雄も手伝って作った。そのため俊雄の作が米吉として蒐集家の手に渡っていたこともある。しかし、昭和23年8月21日父米吉よりも早く、またこけし作者として大成する前に37歳の若さで亡くなってしまった。
左より 小椋俊雄、長女ユキ子、小椋米吉、ツメヨ 昭和15年6月
〔作品〕 〈鴻・第6号〉で父米吉の作品と並べて写真紹介されている。その解説には、「今迄父米吉のものと誤認されて居ることが多い。顔に頬紅や白粉を塗ってお化粧してゐる。好んで紫色を多く用ひている。造付。」と書かれている。ここで紹介された俊雄の作は比較的容易に判断が付く作例である。
一方、〈こけし・人・風土〉の第110圖や、〈こけしと作者〉の第91圖の米吉には俊雄の手が入っているといわれている。こちらは米吉の作風を踏襲しており判定は難しい。ここに示す尺二寸もこれらと同様の作であり、米吉名義で蒐集家手に渡ったものであるが、おそらく小椋俊雄の手が加わっているであろう。首の様子は〈こけしと作者〉のものと同様であり、作り付けで嵌め込みではない。これらのこけしは頬紅や白粉は用いず、紫も使っていない。胴模様も正統的な菊模様であり、限りなく米吉に近い。ただ、描彩はやや硬く、米吉の胴模様のような奔放に流れるリズム感には欠ける。それでも、こけしとしては俊雄名義で作ったものより優れていると言えるだろう。
下掲は俊雄作であろうといわれているもの、あるいは胴模様は米吉描彩かもしれない。面描も俊雄名義の楷書体に比較すると筆法やわらかく味のある表情を示している。
下掲は典型的な俊雄作である。
〔18.5cm(昭和15年頃)(沼倉孝彦)〕
〔伝統〕 木地山系