小椋米吉

小椋米吉(おぐらよねきち:1882~1952)

系統:木地山系

師匠:小椋東右衛門

弟子:小椋俊雄

〔人物〕  明治15年3月15日、秋田県雄勝郡皆瀬村川向(木地山)小椋東右衛門(小椋吉左衛門三男)・ハル(小椋勇右衛門長女)の長男に生まる。明治26年11歳のとき、一家で川連大館へ下る。小椋吉左衛門の家督は東右衛門の長兄利左衛門の孫勇吉が相続している。小椋家は代々木地業で米吉は父東右衛門より二人挽きを習得し、一人挽きは明治30年代に鳴子方面より見取りで学んだという。明治22年生まれの小椋たか(小椋泰一郎妻女)は小学校低学年の頃、一人挽きが入ったというので見に行ったと語っていた。
明治39年8月25歳のとき、川連の農業佐藤七郎右衛門長女ツメヨと結婚した。ツメヨの母は木地山の小椋岩右衛門の娘。ツメヨは東右衛門の綱取りをしたというから、東右衛門は米吉が一人挽きに変わった後も二人挽きを続けていたと思われる。こけし等の木地製品は、一週間ごとに泥湯へ運び、小安や須川にも売りに行ったといわれる。ツメヨとの間に、勝雄、俊雄、道雄、ユキ子、ケイ子の3男2女が生まれた。長男勝雄は木地を始めていたが昭和11年に亡くなった。
大正4年に小椋勇吉より分家したが、泥湯温泉で水害が起きたのを契機に同年12月に北海道枝幸郡原野に移住した。枝幸では職人として3年ほど働き、大正6年9月に北海道上川郡神楽村神楽町本通に移った。
〈こけし異報・9〉で石井眞之助により作者として紹介された。
昭和27年5月18日北海道旭川市神楽町3にて没した、享年71歳。


左より 小椋俊雄、長女ユキ子、小椋米吉、ツメヨ 昭和15年6月

晩年の小椋米吉

〔作品〕  初出の文献は昭和11年3月刊行の〈木形子異報・9〉であり、3本のこけしとえじこの写真が、他の新発見工人とともに石井眞之助により紹介された。石井は米吉の作品について、「大は30センチ小は21センチ、白樺材で首に二重円のあどけない童顔がとても可愛らしい。胴の菊はしっかりしたタッチである。」と書いている。

〈こけし異報・9〉(昭和11年)で石井眞之助により紹介された新工人 中央左に米吉作の3本のこけしとえじこがある。
〈木形子異報・9〉で石井眞之助により紹介された新工人
中央左に米吉作の3本のこけしとえじこがある。

〈こけし辞典〉では〈木形子異報・9〉の刊行年から、小椋米吉のこけし製作復活年を昭和11年としたが、〈木形子異報・9〉の後書きにこの原稿は昭和10年の夏に石井眞之助から届いていたことが記されており、石井発見の一連のこけしの作成年次は昭和10年夏以前ということが明らかになった。

〔20.6cm(昭和10年)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵 〈こけし異報・9〉掲載
〔20.6cm(昭和10年)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵 〈こけし異報・9〉掲載

復活初作は〈木形子異報・9〉のほか、〈こけし手帖・69〉〈古作図譜〉等に紹介されている。石井眞之助による紹介の後、収集家の注文により、小量ずつこけしを製作したが、米吉名儀のなかには二男俊雄の代作も多い。胴のみ米吉で、面描は俊雄がしたもの、描彩米吉で木地俊雄のものなどもある。
俊雄名義のこけしの描彩は一般に凝っており、頬紅、白粉を施したり、紫色など余分な要素が加わっているので容易に鑑別できるが、米吉名義に俊雄の手が入ったものは紛らわしい。

復活初作に加えて、米吉の秀作には、〈鴻・6〉〈こけしの美〉〈こけし 美と系譜〉などに紹介されているものを挙げられる。形態は一定でなく、構造も作り付け・嵌込みの二種がある。胴の菊は、軽妙闊達な草書体で、全体に落ちついた滋味溢れる作風を示している。

昭和15年12月、深沢要は旭川に米吉を訪ね、〈こけしの追求〉で発表された貴重な聞書とともに二本の古型を入手している。現在は西田記念館深沢コレクションに一本ずつ所蔵されているが、〈こけしの追求〉〈こけし風土記〉〈古形志加々美〉等に紹介され、木地山古型を偲ぶ好資料となった。作り付けで、ロクロ模様はなく、簡素な美しさがある。

〔右より 15.7cm(昭和15年12月)(深沢コレクション)、13.3cm(昭和15年12月)(西田記念館)〕 二本とも深沢要が旭川に訪ねて小椋米吉のもとより入手したもの
〔右より 15.7cm(昭和15年)(深沢コレクション)、13.3cm(昭和15年)(西田記念館)〕
二本とも昭和15年12月に深沢要が旭川に小椋米吉を訪ねて入手したもの
この左端のこけしが、後に阿部平四郎の米吉型の出発点になった。

米吉の良品はこの時期までのものに多い。戦後は全く作っていない。なお、〈こけしと作者〉 〈こけし・人・風土〉第110図で示されている作には、俊雄が参画していると思われる。
下掲の写真は、西田記念館蔵、小椋米吉名義であるが、記念館の摘要欄にも(小椋俊雄)と記入があり、俊雄の手が入った作例と思われる。

〔15.8cm(昭和16年ころ)(西田記念館)〕
〔15.8cm(昭和15年ころ)(西田記念館)〕

下掲も小椋米吉名義で蒐集家の手に渡ったもの。これもおそらく俊雄の手が加わっていると思われる。顔料を用いた描彩で、はっきり小椋俊雄と分るこけしの他に、米吉名義で米吉風に作られた俊雄作も存在するので注意する必要がある。ただし、俊雄作の中では米吉名義で作られたものの方に見るべき作はある。

〔36.8cm(昭和14年)(橋本正明)〕
〔36.8cm(昭和14年)(橋本正明)〕

復活後の小椋米吉の製作期間は昭和10年より17年ころまでであり、しかも寡作のため現存作品は少ない。また、この時期にも俊雄の手のものもあり、純然たる米吉の作品はなお貴重といわなければならない。

系統〕 木地山系
小椋米吉の型の継承者は、阿部平四郎・阿部陽子阿部木の実、北山賢一等がいる。また、米吉の型自体が木地山系の一つのスタンダードとなっているので、こけし製作にその影響を受けるものはさらに多くいる。

〔参考〕

  • 深沢要〈こけしの追求〉「作者小記・小椋米吉」
    作者小記では米吉の父の名を小椋藤右衛門と表記しているが戸籍表記は東右衛門である。
  • 朏健之助〈北海道こけし作者を訪ねる〉

 

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