佐藤英太郎(さとうえいたろう:1939~)
系統:遠刈田系
師匠:自家技術継承
弟子:佐藤洋子/佐藤直英
〔人物〕昭和14年8月13日遠刈田新地、佐藤秀一、ハルヨの長男として遠刈田新地に生まれる。父秀一は昭和18年に応召し、昭和19年に戦死したため、大黒柱を失った一家の生活は大変だったという。なお戦時中に出征中の秀一家を訪ねた菅野新一の文に「絵の上手すぎる子」と紹介されているのは、おそらく英太郎のことであろう。父秀一は英太郎が木地を始める前に出征したので、秀一から本格的に技術を学ぶ機会はなかったが、木地屋の家の子として中学生時代よりすでに自家のロクロに向かって木地を挽いていた。
昭和30年遠刈田中学校卒業後、集団就職で関東方面に出て、出版社、クリーニング店などの仕事に就いたが、昭和33年遠刈田へ戻り、35年まで父秀一の従兄弟にあたる佐藤護の工房で働きながら木地の技術を磨いた。十代で家計を支えるため懸命に木地を挽いてこけしを作り、ダンボールに詰めてバスで仙台まで運び、仙台の有名こけし店に持ち込んだが、この時は一本も買ってもらえず、おかみに門前払いを喰わされた。悔しく、また途方にくれた辛い思い出だったという。
昭和33年20歳頃より祖父直助型の習作を開始し、33年8月大阪の森田丈三により直助型製作開始の報告が〈大阪こけし教室だより〉に掲載された。この頃家族と住む自宅には、祖父直助が使っていた足踏みロクロのみがあっただけだったので、英太郎はモーターロクロが備えてあった護の工場で仕事をした。昭和35年22歳のとき、護の工場をやめて温泉町の大沼新三郎工場に雇われ、ここでは主に首振り(新型)を作ったという。
しかし、昭和36年秋木地挽きに見切りを付けて再度上京、神奈川県川崎市の日本鋼管に就職し、約8年間勤務を続けた。この間昭和43年に千葉県大原出身の洋子と結婚、昭和44年7月には長男直英が生まれた。
昭和44年8月に東京のこけし店たつみの森亮介の熱心な説得により帰郷することにした。木地業を復活し、以後は新地の奥に家を構えてこけし制作に取り組み、戦後の第二次こけしブーム若手工人の中心的人物の一人となった。
昭和55年、実家(直助が住んでいた旧家)の跡地に伝統こけしと木地人形の店「木目」を開き、個展などを精力的に開催した。平成元年頃には「東北創美」を設立し、系統の垣根を越えて新山民夫・北山賢一・星博秋・志田菊宏・村上玉次郎・吉田昭・鈴木征一らに描彩を指導した。
平成7年頃から6年程休業していた時期があるが、その後は注文品を含め年間20~30本の割合で製作している。
〔作品〕昭和33~34年の初期の作例は〈こけし 美と系譜〉に原色で掲載されている。若々しい筆致で直助の作風を再現していて、極初期のものから非常に完成度の高いこけしであった。この英太郎18歳というのが蒐集家の一つの蒐集目標ともなった。
昭和44年以後の復帰後も、直助秀作を次々に再現して見応えのある作品群となった。30年代の瑞々しい魅力、40年代からの研ぎ澄まされた感性の魅力に惹きつけられた愛好家も多くいた。
〔右より 24.8cm(昭和34年)、18.0cm(昭和45年3月)、24.4cm(昭和47年12月)、15.0cm(昭和47年6月)、24.8cm(昭和47年9月)(橋本正明)〕
小原直治型については青根に住んでいた直治息子の恭治の許可を正式に受け、小野洸蔵を参考に昭和59年より製作している。
〔右より 15.1cm(直治型)、24.3cm(平成25年11月)(庄子勝徳)〕
〔伝統〕
遠刈田系周治郎系列。後継者に妻の洋子と長男の直英がいたが、現在は共に転業している。