伊豆千代子

伊豆千代子(いずちよこ:1928~2024)

系統:鳴子系

師匠:伊豆護

弟子:

〔人物〕昭和3年8月28日に菓子製造販売業の高橋善助、ジョウの五人兄弟(男二人・女三人)の第四子として山形県北村山郡常盤村六沢(現在は尾花沢市六沢)に生まれた。
伊豆護の妻女、伊豆徹の母にあたる。
 父の善助の作る落雁は美味で地域の名産物でもあった。母のジョウは世話好きで顔も広かったので数々の縁談を決めて仲人を務め引き出物として落雁の売上げに貢献したらしい。ジョウは商才に長けていたので菓子作りの利益で田畑を購入して小作人貸しを行い、六沢の有力者でもあった。そのような事で五人の子は恵まれた環境で成人した。
 千代子は昭和23年3月に伊豆護と結婚、二子(裕子24年5月生・徹27年10月生)に恵まれた。24年頃、護はこけしを少し作った。昭和28年に火災に遭うまでは数名の轆轤職人を雇い茶櫃、盆、茶筒、棗など本格的な木工業を営み千代子が出金、入金等の管理を行った。その後昭和35年頃から千代子は滝見屋食堂の経営を手伝い、やや時間の余裕が出来た昭和41年から護は少しずつこけし制作を復活させた。滝見屋食堂では千代子が考案したマイタケ弁当が地元民に好評で看板料理となった。昭和48年、こけしに注力するために食堂は惜しまれながらも廃業した。徹の話では昭和50年前後から千代子はオカッパ頭、鬢、口など部分的に描彩を手伝っていたらしい。昭和58年4月から放映された「おしん」の影響で銀山こけしは「おしんこけし」として有名になり、伊豆工房の親子三人も繁忙を極め千代子は鼻も描くようになった。この頃、徹の姉裕子は手織り機の先生として東京で活躍、何度か個展を開催している。
 令和6年8月31日に97才で逝去した。徹によると明るい人柄でクヨクヨするところを見た事が無く、気遣いも出来る婦人だったとの事。また母ジョウ譲りの商才も秘めていたらしい。

伊豆護・千代子夫妻

 〔作品〕写真掲載のこけしは舟山達旧蔵品25.7㎝、昭和60年10月6日入手のラベルが貼られている。胴底には「1985.10.3 初作品一号 千代子書く」と達筆に書かれている。朴の木で作られているので写真では少し黒っぽく見えるが保存は頗る良い。舟山氏が大切に管理していた事が窺い知れる。実は千代子描彩こけしは息子の徹も知らず、随分驚いていた。舟山達氏の別注品なのだろう。原は天江富弥旧蔵定雄、昭和2年頃作の二段正面菊である。肩の段は低く挽かれ、鋭い筆致は見応えがあり完成度の高い夫婦合作の優品である。長年、部分的とは言え描彩を手伝っていたので筆慣れしていて、定雄に迫る描彩と感じる。


〔25.7㎝(昭和60年10月3日)(中根巌)〕

千代子の胴底署名

伊豆こけし工房は「誕生こけし」で特許取得した事は有名であるが、徹も「電池変換こけし」と云うアイディア商品を平成28年7月に開発して商標登録、実用新案登録を行い、地元の新聞社全紙の記事となった。訪日外国人旅行客の来店が絶えない銀山温泉の人気店である。

系統〕鳴子系。伊豆定雄のこけしは肘折や蔵王高湯の影響もあるが、基本形としての鳴子系に分類されており、千代子のこけしも一応鳴子系とされる。

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