間宮 敏子(まみや としこ:1937~)
系統:山形系
師匠:間宮 明太郎
弟子:
〔人物〕 間宮敏子(戸籍表記はトシ子)は昭和12年10月8日木地業、間宮明太郎、ユキの二男四女兄弟の第六子として青森県南津軽群大鰐町字大鰐55-3に生まれた。母のユキは田舎館村の農家出身で旧姓は工藤。正男、キヌ子、正明(96才)、トキ子、トシ子(88才)の六人兄弟で正明とトシ子は健在である。(令和8年3月現在)長男の正男が父の木地業を継承した。
トシ子は弘前学院聖愛高等女学校在学中から洋裁が得意だった。女学校の友人は漢字の名前が多く、憧れもあり女学校時代の試験や手紙は昭和31年3月卒業まで「敏子」で通した。学卒後は家事手伝いをしながら洋裁を習っていたが、洋裁の先生の紹介で昭和33年10月6日に弘前市門外の櫻庭弘美と結婚し、二人の子供にも恵まれた。
女学校在学中から明太郎の轆轤を廻して貰いズグリにロクロ線を入れて遊んだ。木地に色を入れるのが楽しかった。学卒業後はこけしも何回か描き、ズグリや駄菓子を販売していた明太郎の店で少し販売された。こけしの署名と薄い頬紅を見て、家事手伝いを始めた昭和31年の作と云う事が判明した。確かに正男のこけしで頬紅を入れたものは見た事がないし、表情は兄よりも柔らかい。そして何よりも「敏子」と書かれた署名が結婚以前のトシ子の行動と一致している。何回か纏めて描き販売されたので敏子名義のこけしはもっと存在するはずである。
トシ子によると父、明太郎はおとない人で声高に怒られたことは一度もなかった。夕食の際にしばしば女姉妹がおしゃべりで賑やかになることがあったが、食事中は静かにするのが礼儀だと諭すように言っていた。兄の正男は家族思いで涙もろい優しい兄だった。特に末っ子のトシ子を可愛がった。トシ子が弘前に嫁いでからの事であるが、山菜採りに出掛けた正男が山から転落して行方不明となり、ヘリコプターが出ての捜索となり翌日に発見された事があった。大鰐町ではこけしよりその事で正男の名前は知られていたらしい。正男は長く木地業を続けたが平成20年6月8日没。正男、サダエ夫婦の長男、敏美と妹の幸子(たかこ)は病気で正男夫婦より早く亡くなった。正男、サダエ没後に土地、家屋は売却され間宮家の木地業は廃絶した。敏美には男の子が二人いて青森県内で暮らしているとの事である。
間宮家の木地の歴史は古く『ずぐりの世界』(工藤義継著・令和元年10月1日発行)によると村井福太郎の話として大鰐の木地屋は、江戸時代から明治にかけて、津軽藩主の庇護を受け澤田、間宮、田中、村井、油川、横山、苗字不明の7軒の木地屋があったが、明治になるに及んで間宮と村井のみが残り、他は廃業したとの事である。 その後、村井家も昭和40年代半ばに操の代に廃業し、唯一残った間宮家は正男が平成10年代後半まで木地業を続けた。嶋津家、佐々木家(長谷川を含む)は元々温湯木地師で、昭和になってからの大鰐への転居なので大鰐系列とはみなさない。間宮家は江戸後期の間宮孫次郎→忠太郎→竹次郎、明太郎兄弟そして正男と系譜は継がれた。竹次郎がなぜ弟の明太郎に家督を譲ったかは明らかになっていない。竹次郎には息子が武一(たけいち)、武俊、昭一、竹治(たけはる)と四人いたが誰も木地業には就かず、既に没している。四人は正男のいとこにあたるが、両家の行き来はなく、親の代に何かあったのまもしれない。武治の妻、明美は健在で大鰐の共同浴場「若松会館」に勤務している。
〔作品〕兄間宮正男の作風に従っているが、頬には大きく頬紅を入れ女性らしい工夫がある。
〔系統〕 津軽系大鰐亜系
