藤原義巳(ふじわら よしみ:1940~1998)
系統:木地山系
師匠:小椋留三見取り
弟子:
〔人物〕昭和15年1月4日に秋田県雄勝郡皆瀬村畑等桂沢で農林業をしていた藤原武蔵、ヨリの五人兄弟の長男として生まれた。
兄弟は他出したが長男なので学卒後は営林署に勤めながら実家を継いだ。営林署では主に伐採作業を行い、職務上雑木林に詳しかった。
昭和45年頃から地元の小椋久太郎の作品に興味を持ち工房を何度も訪ねた。イタヤカエデなどの材料を久太郎に提供して喜ばれ、更に興味が増した。通い詰めるうちに留三と親しくしくなり木地挽きの手解きを受けたとの事である。但し留三との師弟関係は無く、見取りに近いものと思われる。昭和55年頃に自作の轆轤を木地小屋に設置して独学で木地挽きを始めた。同時期に兼子専一、高橋貞助、高橋静子(木地は夫の秋男)、伊藤武もこけしを作り出している。これら殆どの人は「秋田こけし展」に出品して工人目録に名を残しているが、義巳は一度も出品していないので作者として知られ事がなかった。地元の工人との交流も殆どなく地道に制作活動を続けた。面相筆を用いない茫洋とした表情は独特である。梅模様は物真似ではなく独自性がある。媚びていない表情には風土性も感じられる。職場仲間や村人、友人の新築や結婚祝いとしてこけしを作らった。義巳に師事を仰ぎ木地小屋を訪れる者もいたとの事。元々、血圧が高かったが平成10年6月26日、大動脈解離で逝去。58才だった。
妻女のさきによると大らかで優しい人だったらしく、こけしの作風に滲みでている。三人の男の子供がいるが秋田県を出て家庭を持ち、家業は継いでいない。
義巳のことはこけしの文献で殆ど発表されていない。『秋田こけし通信』No61(昭和61年5月17日・秋田こけし会発行)相川栄三郎の「売られた小安こけし」の中に昭和61年5月1日から5月6日開催の「第15回秋田県民芸展」(於・本金西武デパート)にて「村おこしコーナー」として小南三郎、小南清子、兼子専一、の他に新人の高橋貞助、高橋静子、のこけしが初めて販売されたと記載され、「出品はされなかったが菅原義巳(皆瀬桂沢)、高橋馨子(皆瀬畑)、石山研二(皆瀬貝沼)も製作している」という報告がある。義巳の事は残念ながら菅原と名字を間違えているが藤原義巳のことである。また高橋馨子、石山研二のこけしは確認されておらず他の文献にも掲載されていない。〈伝統工芸 東北のこけし〉(平成20年7月7日・高井佐寿著)には17.4㎝のこけし写真が藤原義巳名義で掲載されているが、住所、生年月日、師弟関係などは不明となっている。義巳に関するこけし文献の記載はこの二点のみと思われる。
なお自宅、工房は解体中とのことである。
〔作品〕掲載写真はこけし小家(山本吉美)が昭和62年9月入手した23.7㎝。令和6年に矢田正生より中根巌へ譲られたもの。矢田正生によると藤原本人からの入手ではなく「小安こけし工人会」から纏めて何人かのこけしを送って貰った内の1本との事。高井佐寿〈東北のこけし〉 の藤原義巳も同時期の作との事である。

昭和62年9月頃 右より18㎝、30㎝、28.7㎝、17.8㎝
〔系統〕 木地山系