菅原敏(すがわらさとし:1937~1992)
系統:遠刈田系
師匠:菅原庄七
弟子:
[人物] 昭和12年10月3日宮城県名取郡秋保村湯元30にて菅原庄七、とめよの長男として生まれる。昭和29年3月秋保中学校卒業後、石工等をした後昭和30年頃より庄七の仕事を手伝い始めた。昭和31年には初作を発表、作る本数は年々増えていった。昭和40年頃水戸屋旅館の改築に伴い湯元字薬師45-3へ転居し、庄七はここで亡くなった。昭和60年頃より製作量が減少し、平成2年にとめよが亡くなってからは得意の山菜採りが出来なくなるほど酒で体を壊していた。平成4年12月逝去、行年54歳。11月末約1週間、2階寝室の照明が昼間も点灯し続けていたので実際は11月22日から29日の間に亡くなったものと思われる。
[作品] 初作に近い時期のものは筆の走りがたどたどしく全体的におぼこいものが多かった。昭和33年から36年は同じ時期の庄七を忠実に受け継いだ作風である。
昭和40年頃より目鼻の描彩が鋭くなり、たつみの依頼により古作の復元、佐藤三蔵や庄七最盛期の型を手がけた。昭和40年頃までは写真による復元が主であったと思われるが、昭和41年になってたつみの森亮介が、三蔵、庄七の現物を蒐集家から借り出して、敏に見せて復元させてから、復元の完成度は著しく上がった。中屋蔵の三蔵型復元は表情の異様な迫力まで忠実に再現し得ていた。昭和41年夏の庄七型は紫のロクロ線が入った庄七最盛期の物の復元で、表情に張りがありバランスにも破綻のない見事な作であった。
その後も水準の高い作品を作り続けていたが、次第に面描に極端な筆癖が現れるようになり、一種異様な表情のこけしに変わっていった。昭和50年代に入ると頭が瓜ざね型になり、また鬢も短くなって作柄は低下した。晩年は製作数の低下により以前ほどの筆の勢いは見られなくなった。この時期のこけしは主に岩沼屋の売店で捌かれていた。なお、〈木の花・9号〉の「戦後の佳作」では菅原敏を取り上げ、昭和40年代までのこけしについて丁寧な論評を加えている。
〔右より 31.0cm(昭和41年9月)中屋惣舜蔵三蔵の復元、20.6cm(昭和40年)(橋本正明)〕
右は〈こけし辞典〉原色版に掲載されたもの
〔右より 24.5cm(昭和41年6月)たつみ頒布、15.8cm(昭和43年)三蔵型(橋本正明)〕
〔25.0cm(昭和41年8月)(橋本正明)〕庄七型 たつみ復元
[伝統]遠刈田系秋保亜系