新山久志(にいやまひさし:1915~1984)
系統:弥治郎系
師匠:新山久治
弟子:新山久城
〔人物〕 大正4年年7月30日、宮城県刈田郡福岡村八宮弥治郎の新山久治の長男に生まれる。弟に新山茂がいた。昭和5年に福岡村尋常高等小学校を卒業後、父久治について木地を修業した。こけしや玩具類、櫻物の茶入れ、菓子器、タバコ入れなどを作り、その傍ら農業にも従事した。
昭和10年12月現役兵として応召、朝鮮を経て昭和13年11月に除隊、帰郷後木地に復帰した。〈木形子異報〉により作者として紹介された。昭和16年7月再び召集を受け、やがて帰郷したが、その後2回召集を受け、和歌山で終戦を迎えた。この間、昭和17年に長男久城が誕生した。
戦後は木地業に専心した。昭和23年弥治郎こけし組合を結成し組合長を務めた。また弥治郎系こけし工人会の会長に就任し、弥治郎系の団結強化に尽力した。昭和32年より長男久城に木地を教えた。
昭和59年3月3日、心筋梗塞により没した。行年70歳。
〔作品〕 昭和10年以前の応召前の作品は極わずかしか残っていない。
平成25年10月の三土会の際に、下掲2本の戦前作が持ち寄られた。下掲右端は〈図譜『こけし這子』の世界〉の24図とほぼ同時期の作。昭和8年ころの応召前の作例。作為のないあどけない面立ちの佳品である。左端は〈美と系譜〉掲載の米浪庄弌旧蔵と同時期で昭和14年ころの作。
戦後も一貫してこけし製作を続けたが、昭和29年から30年にかけては優品が多く、久志のピーク期と呼ばれた。昭和29年は目がやや釣りあがって緊張感ある表情、昭和30年は大振りの頭のゆったりとした表情で、それぞれがいかにも弥治郎らしい雰囲気を良く出していた。
〔右より 24.1cm、26.0cm(昭和30年頃)(橋本正明)〕
戦後は、作風に際立った変化はなく、晩年まで安定した製作を続けていた。昭和33年頃から新山栄五郎の型も製作した。
〔伝統〕 弥治郎系新山系列
新山久治郎ー久治ー久志ー久城・慶志・亨と続く系譜
〔参考〕
- 柴田長吉郎:新山久志さん追悼〈こけし手帖・277〉(昭和59年4月)