平賀貞蔵(ひらがていぞう:1897~1986)
系統:作並系
師匠:平賀謙蔵
弟子:平賀貞夫/早坂伝吉
〔人物〕 明治30年8月6日、宮城県作並の平賀太五郎二男に生まれる。明治45年16歳の時、兄謙蔵が夫婦で山形より戻り、作並で木地を開業したので、その弟子となった。こけしや玩具のほか、盆や茶櫃等も挽いた。
大正12年転職し、仙台に出てタクシーの運転手をした。当時、木地屋の収入は月10円程度、運転手は月50円くらい稼げた。長男の貞夫は仙台で生まれた。昭和6年に仙山線が作並まで開通し、作並にも多くの客が入るようになったので、昭和8年に帰郷し、駅前にめし屋を開業、傍ら岩松旅館で雑役をして働くようになった。昭和12年頃、謙蔵が痛風で木地を挽けなくなったので、少しづつ手伝って作るようになったが、昭和14年に甥の謙次郎も出征したため、兄謙蔵のもとで甥の多蔵とともに本格的に木地を挽くようになった。長男の貞夫も国鉄作並駅に勤務するかたわら、貞蔵について木地挽きを始めた。ただし貞蔵は約半年くらいこけしを作ったが、岩松旅館の番頭を頼まれてその職に就いたので、以後戦前のこけしの製作数は非常に少なくなった。
長女の君子が仙台の狩野安志と結婚、昭和19年頃安志に頼まれて木地の指導を行った。
昭和23年に独立して、作並駅前にに移り、新聞取次店を営む傍ら、備え付けた足踏みロクロでこけし製作をつづけた。昭和25年には大倉村の早坂伝吉に頼まれて、出張して木地を教えた。戦後の作並こけしは長い間、貞蔵と謙次郎が支えた。
昭和58年5月作並ホテル岩松での入湯後に倒れ、仙台の登米外科病院に入院、その後孫のいる塩釜市の掖済会病院で3年程入院加療を続けたが、昭和61年5月24日肺がんのため没した、行年90歳。
〔作品〕 下記掲載図版3本のうち右端は面描がやや下方にあり特異な表情、おそらく大正期で仙台に出る前の作と思われる。
昭和12以降復活初期の作品は〈鴻・11〉に紹介されているが、同時に製作した他の作並の作者と比べると、上下の瞼の中央に小さく眼点を入れる特徴がある。そのため戦前の貞蔵は、表情毅然として甘さの少ないこけしであった。戦前の貞蔵のこけしは大正12年以前と昭和12年以後、しかも盛んに作ったのは昭和14年から15年にかけての約半年であり、残る作品は必ずしも多くはない。
〔右より 30.0cm(大正期)、26.5cm(昭和14年)米浪庄弌旧蔵、
31.5cm(昭和15年頃)(鈴木康郎)〕
〔26.ocm(昭和15年)(深沢コレクション)〕
戦後も間もなくこけしの製作を始めたが、観光客を対象としたこけしは、胴が太くなり、また面描の筆も太く、ぽってりとした筆法に変わった。
昭和35年以降に、蒐集家の依頼により戦前作の復元などをしばしば行ったが、それらは観光客用のこけしと比べて、表情も姿も格段に張りがあって、古風な作並の情感を感じさせる佳品であった。
〔右より 21.5cm(昭和31年)、24.8cm(昭和42年)(橋本正明)〕
左側は戦前作の復元
〔伝統〕 作並系 長男貞夫が戦後昭和24年に若くして亡くなったのは残念である。弟子の早坂伝吉が貞蔵の流れをくむこけしを作った。
〔参考〕
- 柴田長吉郎:作並の老工・平賀貞蔵〈こけし手帖・135〉(昭和47年5月)
- 柴田長吉郎:平賀貞蔵さんの思い出〈こけし手帖・305〉(昭和61年8月)