西山勝次(にしやまかつじ:1884~1956)
系統:土湯系
師匠:西山辨之助
弟子:西山憲一
〔人物〕 明治17年12月25日、福島県信夫郡土湯村上ノ町に生まる。木地業西山辨之助・ヨネの長男。兄弟はシモ、トク、源助、弥三郎、イト、政次、スイ、トメ、マツの四男六女であった。祖父の濱吉は佐久間亀五郎の二男で、西山長太郎の長女サクと結婚し、西屋の西山弥三郎の夫婦養子となって西屋を継いだ。勝次は阿部治助より一つ年長である。父辨之助について木地を修業した。青年時代ハワイ移住考えたがトラホームのため実現できなかった。明治43年2月土湯村の二階堂藤五郎の長女キクと結婚した。大正時代はセルロイド製品におされ、こけしはあまり売れなかったので盆専門に挽き、また農業に専心した。
村会議員を2期、学務委員を15年、裁判所債務調停委員を10年つとめた。昭和10年三男憲一が勝次について木地の修業を始めた。身体は丈夫であったが、酒好きで終戦後メチルアルコールを飲んでで失明しかけたことがあったという〈こけしのふるさと〉。こけしは昭和3年〈こけし這子の話〉で紹介されたが、写真に掲載されたこけしは父辨之助の作品であった。勝次のこけしの写真は〈日本郷土玩具・東の部〉が初出である。初期の文献では勝治として紹介されていたが、戸籍表記では勝次が正しい。一時岳へも働きに行ったとされるが、その時期ははっきりしない。相当頑強な職人気質の人であったようだが、経歴についてはあまり詳しく調査されていない。昭和31年9月28日湯へ行く途中脳溢血で倒れ亡くなった。行年73歳。
〔作品〕 極く古い時期の勝治名義の作例は〈こけしの美〉の原色版に米浪庄弌旧蔵品(大正期)がある。様式は、勝治名義で紹介された〈こけし這子の話〉の辨之助作に近い。古土湯の風格を備えた優品であり、これも辨之助作ではないかという見解もある。
昭和初期の土湯の作者はこけしの需要があるときには作っていたと思われるが、常に製作を続けていたわけではなかったようである。「西山勝次、阿部新治郎は木地を離れ」といった橘文策や深沢要の記述が、昭和12、3年ごろには良く見られた。ただ、昭和5年の〈日本郷土玩具・東の部〉には勝次のこけし写真が掲載され、昭和6年に土湯を訪問した橘文策は7寸を勝次自身から手に入れているので、完全に木地から離れていたのではないだろう。こけしの製作は昭和8年頃から12年頃までのものはあまり残っていない。
下掲の作は米浪庄弌旧蔵品で胴底には復活一号の記入がある。〈こけしの美〉の単色図版78に掲載された。鹿間時夫は「この作は傑作で、筆勢も良く表情に富み、やはり古式の微笑を持っている」と評した。同様の作は鈴木鼓堂コレクションにもあった。この胴に描かれた花模様を蒐集界では俗に「飛行機」と呼ぶことがある。おそらく昭和12年頃の作と思われるが、復活一号という胴底の書入れから見るとこれ以前の数年はほとんど作っていなかったのであろう。
〔 25.0cm (昭和12年ころ)(鈴木康郎)〕 米浪庄弌旧蔵
復活一号の記入がある
下の写真は、昭和15年から16年のこけし、戦前の代表的な勝次の作である。昭和16年5月にはまとまった頒布が行われており、この時期の残る作品は多い。
〔右より 26.6cm(昭和15年)(橋本正明)、34.0cm(昭和15年)(荻野哲夫)、25.0cm(昭和16年)(田村弘一)、28.5cm(昭和16年頃)(植木昭夫)、25.0cm(昭和16年)(鈴木康郎)陸奥売店の印あり〕
〔 22.1cm(昭和16年頃)(西田記念館)〕 西田コレクション
昭和17年には麻布時代のたつみで頒布が行われた。
戦後の作品には胴下部に赤点の花が描き加えられる様になる。また桃色のロクロ線を用いたものもある。下掲は昭和21年作、面描にはまだ戦前の雰囲気を残している。
晩年のものになると面描は童顔になり筆力は弱くなる。西山憲一は昭和22年頃よりこけしの製作を始めたので、初期の作は晩年の勝次の作風を継承していた。
〔系統〕 土湯系湊屋系列西屋
〔参考〕
- 鈴木康郎:談話会覚書(16)「西山勝次のこけし」〈こけし手帖・634〉平成25年11月1日