平塚安兵衛(ひらつかやすべえ:1908~2015)
系統:山形系
師匠:武田卯三郎
弟子:
〔人物〕 明治41年9月28日、平塚弥平の三男として山形県東村山郡天童町久野本に生まる。大正12年ころ実家向かいの神尾木地屋に弟子入り木地修業する。この時期の神尾木地屋は武田卯三郎が職長で主に山本商会の下請け(農機具部品)を、卯三郎の父春吉は主に臼を作っていた。昭和3年南村山郡蔵王高湯の能登屋へ職人として赴く。主にここでは木地玩具の鳴りゴマ・バケツの他,岡崎栄作・嘉平治親子こけしの下木地を挽いた。しかし蔵王での仕事は夏期のみで秋には山を下り当時山形市鍛治町にいた小林吉三郎方等で職人として働く。昭和7年米沢市へ転居,御守町の西須木工所・北寺町の佐竹林之助の職人をしたのち昭和10年には市内清水町へ転居,主に木管やボビンを挽いたが数年後には機業が不振となり昭和15年より他の米沢の作者同様初めて筆をとりこけしを作った。戦況が厳しくなると米沢航空工場で高崎栄一郎らと共に軍需品を挽いた。戦後は新型の下木地を主に挽いたが,昭和48年に本格的に復活するまでの15年程は別の仕事をしていた。復活後は問屋・土産物店よりの注文により鳴りゴマと少数のこけしを挽いていたが,平成20年頃より老齢のため製作を休止し,平成27年7月11日老衰により没した。行年108歳。
平塚安兵衛(平成16年10月)
〔作品〕 昭和15年からの作品が残ってるが重ね菊模様等、蔵王能登屋の影響を確認出来る。鈴木鼓堂旧蔵のものは胴に創作風の草花を描き、米沢の当時の一般的様式となっていた。
昭和48年以降のものは同模様は松竹梅の卯三郎型で統一しているが稀に昔を思い出して重ね菊を描く。
〔伝統〕木地の系統は山形系であるが、こけしは能登屋の職人をしていたこともあり、蔵王高湯系の様式が加わる。晩年96歳の写真掲載の作は殆ど蔵王高湯の作風である。