広井政昭

広井政昭(ひろいまさあき:1935~2019)

系統:遠刈田系

師匠:広井賢二郎/我妻吉助

弟子:佐野勉/福島保/伊藤誠一/坂間理香

〔人物〕  昭和10年3月7日、東京市城東区(現東京都江東区)大島3丁目に、広井賢二郎次男としてうまれる。母は神田美土代町の大工の娘加藤としである。関東大震災の時に家が潰れ、加藤家が被災したのを助け、後々面倒を見たのが縁で、賢二郎と加藤家の娘としが結婚した。 政昭は兄道顕と共に幼少の頃から轆轤に親しみ、昭和18、9年頃から遊びで木地挽きをしていた。 昭和20年3月の東京大空襲で焼け出され、5月には麻布降龍寺(現六本木ヒルズの近く)に避難したが、仕事が無くまた焼け出されたので、近くの白金台に家具屋が多くあり、挽き物の需要も有ったので、家を持ったがここも6月に焼け出されてしまう。 結局広井家は3回も焼け出されて麻布宮村台の南山小学校で避難生活をしていたが、当時東京の学校は9月までは完全に休校していた、そんな折、高山某の経営する少国民育成社という玩具問屋の紹介で、宮城県白石に疎開することになった。当時高山某は白石には玩具を作る材料が豊富にあったため腕の良い広井賢二郎を招聘し工場を作りたかったわけである。 一家は旅館中屋に落ち着き、やがて白石の郊外川端福岡村白土に移り8月の終戦後は福岡村大字山ノ下で農業関係の倉庫にあった傘轆轤で高山某と仕事を始められることになった。白石中学の卒業生50人を雇って「ラッキョウのグライダー」、「ハト車」などを大量に作った。

ラッキョウのグライダー  と   ハト車

当時は日本全国がおもちゃに餓えており、なんでもよく売れた。製品は主に東京方面は広井家が担当、白石周辺は高山某が担当して、輸出もするようになった。 10月になって元々白石で菓子商を営む「とらや」が木地物を扱うこととなり、青年将校であった清原孝男が復員して戻り、噂を聞きつけて広井家に仕事の依頼があった。ここで兄弟とも足踏みで新型こけしの「ドンコ」(下の写真参照)やおもちゃを挽いた。ただ今のような剣玉だけは当時広井家が専門に作り、卸価格で15円、雑貨屋で30円と比較的高価で、一般には玉だけ付けた竹製のものであった。 父賢二郎は佐藤雅雄と親しくなり、やがて渡辺幸九郎、鎌田文市とも親交を結んだ。当時幸九郎、鎌文は小寸の作り付けこけしを沢山作っていたという。 またこの頃にはたつみの森二良(亮介)氏がリュックにベレー帽で幸九郎の所で良く来ていた。なお木地製品は東京、松島、岩沼辺りに売り歩いた。ただこうした木地製品はその後徐々に小田原製品が進出して衰退してゆく。 昭和22年12月国道4号線の自宅で木地玩具を作っていた時、何時もかなりの人だかりが出来、仙台の谷某がどうせなら仙台で仕事をとの誘いがあり一家で仙台の北二番町に移住した。こけしは売れ始めたが、広井家はおもちゃが主流で、父賢二郎はこけしについては意中になく、剣玉、輪ヌキダルマ、台所用品(お勝手道具)などを盛んに製作した。当時は風呂敷に包んで、主に石巻まで売りあるいた。 やがて八幡神社脇の坊主町に移住、政昭は偶々通りすがりの佐藤某の勧めに依って学校に通うようになる。木地製品は相変わらず売れたが、米軍のキャンプでビリヤードが流行り、東一番町の南風というビリヤード場の依頼で象牙の玉を八方挽きという特殊な方法で挽いたりした。また蛇の目ミシンやリッカーミシンの依頼で桂材の腰掛の賃挽などもあった。更に一番沢山作ったのは、湯暖計(赤子の金盥に入れるもの)の木製鞘(注)で、千本単位で作った。卸先は東京の神田で、西福田町の佐藤計量器は猫の図柄、紺屋町の特殊計量器はこけしの図柄、他に司町、多町に日本計量器、東洋計量器などの会社があった。

猫の図柄の湯暖計(佐藤英里子)

猫の図柄の湯暖計(佐藤英里子)

昭和25年頃佐藤巳之助に紹介された仙台の古い木地師佐藤賢治の世話で東七番町に落ち着いた。当時仙台では佐藤賢治は島田木工(家具屋)、佐藤巳之助は宮城木材(材木商)の専属であった。 昭和26年に我妻吉助の依頼で主に新型こけしばかりではなく旧型こけしも作ることになり、この時期から一家でこけしも作ることとなる。こけしに就いては大きな問屋が2つあり、第一民芸(佐藤好秋、広井家等)派と東北民芸(佐藤文助、佐藤守正等)派があり盛んにこけしを商った。 なお新型こけしは、戦前から「どんこ」という男女一対のこけしが多く作られ、五所平由紀介や山中登が農村芸術協会を作って、昭和20年代は全盛時代であった。また所謂「首ふり」といったゆるいはめ込みこけしも多く作らえた。作者としては仙台では高橋はじめ、石原日出男が指導的役割を果たしていた。

どんここけし (戦前から流行した新型こけし)
どんここけし (戦前から流行した新型こけし)

多くの工人がこうした新型の下木地を挽いていた。 仙台の生活も長くなって、昭和38年東京の新ステーションビルでみちのくこけし展があり、我妻吉助、酒井正二郎、今野幹夫、同かしく、村上玉次郎等と政昭も参加したが、たまたま十二社に住んでいた蒐集家の久松保夫が会場を訪れ佐藤松之進の名品7、8本を見せてくれたが、今まで教えられたこけしと余りに違うのにショックを受けた。 昭和39年オリンピックの年、政昭は横浜市港北区岸根町に居を移し、以降たびたび久松邸を訪れて本物のこけしを探求したいとおもい、吉助、玉次郎等と研鑽をかさねた。東京こけし友の会の頒布もこの時に依頼を受けた。 しかしこけしの売れ行きは徐々に悪化していって、一時宮城県の物産からこけしがはずされたことがあった。東京大丸百貨店の6階に宮城県の物産館があり轆轤を持ち込んで一週間実演をやったが、関心を示さなかった担当者が多くのファンが居ることを知り、協力するようになった。この時全面的に手伝ってくれたのが善養寺幸児でそれからの縁ができた。なお余談だが、この時宮城物産館の責任者であった井野氏はその後西荻窪のガード下で「あかり」という民芸店を経営してこけしも扱ったそうである。 善養寺の父は伴七といって群馬県榛東村の出身、当時横浜で画廊を経営して、日本画の展示即売を行っていた。幸児は東京教育観光協会なる会社を立ち上げて修学旅行の代理店をしており、お土産物のこけしなど扱っていたが、やがて父の仕事を手伝うようになる。 その後ステーションビルの仕事は新宿ばかりでなく、蒲田、横浜と続き、善養寺の会社は東観となり、関係が強くなり、種々の製品を作った。 研鑽を積んだ松之進型のこけしもかなりの量製作して、こけし界の評判も良く、この頃から数年が政昭のこけし時代といってもよいだろう。ただしこれは昭和43年ころまでで、気持ちのうえで判断すると以降本命としてこけしを作るのは止めようと思い出した。 そのきっかけは当時人気絶頂だった、久松保夫氏から貰った色紙の歌で、蔵王の山を謳った故郷の思いの内容で、自分との原点の乖離を思い起こさせ、また白石時代、仙台時代との思いと相まって得た結論であった。 すなわち東京の下町で育った自分は、東北の風土に根差したこけしではなく、あくまでも江戸の町に古くからある木地玩具、江戸独楽を作るべきだと気が付いたわけである。 ただしその後も頼まれればこけしは作っているし、松之進の弟子の佐藤廣喜型などは素晴らしい復元がある。また昭和44年5月の東京こけし友の会の8寸、6寸の頒布は佳品であった。 昭和43年善養寺幸児の弟の嫁の妹恵子(えみこ)と結婚し、その後2男2女をもうけた。 昭和47年横浜市旭区二俣川に移住、昭和51年さらに現住所である神奈川県海老名市上今泉に移った。 政昭はその後現在に至るまで西銀座デパート、三越本店、銀座松屋等の、東京のデパートや日本各地、海外でも実演を重ね、江戸独楽、木地玩具の普及活動を重ね好評である。 特に海外での政昭の作る木地物の評価は高く、パリルーブル美術館のアートデコレーションとして、20点以上の展示があり、またフィンランドのサンタクロース博物館にも展示がある。アメリカ、オランダ、ドイツなどでも実演や展示を行った。 またもう一つ外せないのが、曲独楽作りである。昭和40年のこと、柳家女楽という独楽芸人が訪ねてきて曲独楽を作って欲しいとの依頼である。実は父賢二郎から曲独楽だけは手をだすなとの遺言が有った。これは曲独楽は完全にバランスをとるのが極めて難しく仕事にならないことを賢二郎がよく知っていたからである。木製の大きな曲独楽でないと、寄席の高座にはあがれない。当時女楽はプラスチック製のお盆に心棒を通した曲独楽まがいの独楽で辛うじて進駐軍のキャンプなどを回っていた。 仕事が比較的順調に成ってきたばかりで、親の遺言もあったが、曲独楽界の窮状をみて政昭は3年待って欲しいと言った。 なお、江戸(東京)の独楽職人は、もともとは本所菊川町の広井家(照顕、朝顕、賢二郎)がおり、この他に浅草浅草寺にいた、服部某がいたが、曲独楽から離れて、細工ものを中心とした独楽に変わっていたのである。一方東京の曲独楽を作れる工人は昭和30年代までは、上野佐竹(現東上野)にいた、浅草講和会の赤井久吉(如水)がおり、11歳で独楽丁稚になり苦労して曲独楽職人になった人で、一手に芸人の独楽を作っていたが、この頃になると、白内障のため、精巧なものは出来なくなっていた。 政昭は苦労して3年間に200個の曲独楽を作ったが、結局使い物に成ったのは2個だけであった。この独楽は柳家女楽に進呈したところ、曲独楽が破損して高座に出られなくなった芸人から次々と依頼があり、三代目三増紋也、柳家小志、富士幸三郎などの曲独楽を作ることとなった。 偶然に期待してバランスの良い独楽を作る訳にはいかないので、昭和20年台に赤井久吉の作ったこまを割ったところ中から五寸釘がでてきて、これでバランスをとっていたことが分かった。政昭は30年以上干した木で曲独楽を作るが、遠心力を利用して独楽の重い部分が上に行くことから、筆で印を付けて鉛で調整する。色付けにカシュを使うがまたバランスが狂うためさらに調整を重ねることになる。結局大きな曲独楽は調整に5~6日かかることがある。 政昭の弟子は佐野勉、福島保、伊藤誠一、坂間理香が居り、福島は横浜緑区霧が丘で、伊藤は湯河原で、坂間は横浜南区南太田でそれぞれ木地玩具や曲独楽も作る。佐野は亡くなったが善養寺幸児と日大の芸術学部の同窓生である。 また政昭の木地玩具は数百種類あり本人もその数は分からないという。日々新しい創作があり、また昔からの伝統的玩具もあり、創作活動は留まることを知らない。こけしについては松之進型が基本で、たまたまこけし会に行った時、松之進の和紙に描いた描彩絵が20枚以上ありこれを参考にして、種々組み合わせで胴模様としては50種くらいになる。一時赤坂の「撰大木」で政昭のこけしだけの展示会を開催したが36種の模様を描いたセットを作り全部で2,000個近い注文があった。また廣喜型も作り、いずれも優れたものである。 なお、賢二郎の兄、政昭の伯父、聖一郎は足踏轆轤で江戸風の小さい木地製品を得意として主に作っており、おしゃぶりや腰下げ(サイコロと6個の瓢箪)などのおもちゃを作って浅草仲見世の伊勢勘、武蔵屋などに一ヶ月に1回卸していたそうである。
令和元年5月26日没、行年85歳。

広井政昭 平成26年7月12日
広井政昭 平成26年7月12日

〔作品〕 広井政昭の本格的な伝統こけし製作は、昭和38年に久松保夫コレクションを見て以降といっていい。東観の善養寺幸児の実演会や即売会で多く売られた。多くの蒐集家の注目をひくようになったのには、昭和44年5月の東京こけし友の会での頒布が一つの契機となった。 木地技術は勿論であるが、描彩センスも優れていて、数々の松之進型を復元し、松之進の剛直さと、品格の高い作風をよく再現し得た。 昭和45年から47年にかけて、質の高いこけしを量産した。 この時期の松之進型、広喜型の最良の作者であった。

〔右より 14.0cm、21.7cm(昭和45年12月)、えじこ、16.6cm(昭和44年5月)、13.5cm、30.0cm(昭和49年5月)、21.5cm、30.0cm、13.5cm、21.3cm、13.5cm(橋本正明)〕  製作年の記載のないものはすべて昭和46年より47年5月までの作
〔右より 14.0cm、21.7cm(昭和45年12月)、えじこ、16.6cm(昭和44年5月)、13.5cm、30.0cm(昭和49年5月)広喜型、21.5cm、30.0cm 広喜型、13.5cm、21.3cm、13.5cm(橋本正明)〕 製作年の記載のないものはすべて昭和46年より47年5月までの作 昭和44年5月作は東京こけし友の会頒布品


〔30.0cm(昭和49年5月)(橋本正明)〕 佐藤広喜型

系統〕 遠刈田系吉郎平系列

〔参考〕

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