広井道顕(ひろいみちあき:1933~2020)
系統:遠刈田系
師匠:広井賢二郎/我妻吉助
弟子:
〔人物〕 昭和8年3月3日、広井賢二郎長男として東京市城東区大島3丁目に生まれた。母は神田美土代町の大工の娘加藤としである。広井家は代々徳川家の番医(御殿医)の家柄であって、9代目の照顕から東京市本所柳原町で木地挽きを始め、木地屋としては初代で、2代目朝顕、3代目が父の賢二郎である。従って道顕は、木地師としては4代目で、幼い頃から轆轤に親しみ、足踏轆轤と刃をなました鉋で木地挽きを習った。やがておもちゃを中心に何でも挽きこなし、江戸風の木地玩具、虫切りのおしゃぶり、腰下げなどや、江戸独楽を作った。 昭和20年3月の東京大空襲で焼け出されるまで、父賢二郎と弟政昭と共に江東区上大島で木地を挽いていたが、その後都内で、麻布、白金台でも焼け出され、昭和20年6月宮城県白石市に疎開した。白石郊外の福岡村で傘轆轤を使って玩具等を作ったが、やがて市内の「とらや」で木地挽きをした。当時渡辺幸九郎、佐藤雅雄、鎌田文市等弥次郎系の工人が居り、こけしを覚えることとなる。 昭和22年12月に一家で仙台市北二番町に移住、さらに昭和25年には仙台東七番町に移った。当時仙台では佐藤巳之助、佐藤賢治、海谷吉右衛門、朝倉英二等が木地を挽いていたが、昭和26~27年ころから、同地の我妻吉助に就き旧型こけしを作るようになる。昭和39年弟政昭は横浜に移住、同45年1月4日父賢二郎が78歳で亡くなった。その後、仙台市太白区秋保町湯元の秋保工芸の里に店を持って木地挽きを続けた。 仙台時代の弟子に佐野勉、本田裕輔が居り、秋保に移ってからの弟子に前田良二、桜井美沙、山田恵里がいる。また独楽の指導を受けたものとしては、前記の弟子のほかに新山実、新山民夫、鎌田孝志、星定良、渡辺英雄(新型木地下)、嶋村幸二(大工)、鈴木功(技官)らがいる。
令和2年7月27日没、行年数え年88歳。
なお平成5年には弟の政昭とともに日貨出版社より「江戸独楽」を出版した。
〔作品〕 こけしは吉助からの伝承で、吉助流の松之進型であるが、頭部は比較的丸く面描は細いが張りがあり、どこか江戸前の粋な所がある。胴模様は重ね菊、旭菊などを描く。こけしは専門ではなく、数多く作らないが、決して凡手ではない。ただし本領は江戸独楽、木地玩具である。
〔系統〕 遠刈田系吉郎平系列