本間功

本間功(ほんまいさお:1935~)

系統:木地山系

師匠:小野寺正徳/小椋捨次郎

弟子:

 

〔人物〕 昭和10年8月14日、秋田県雄勝郡東成瀬村椿川の学校教員本間嶋蔵・リヨの三男に生まれる。生家が山林を持っていたので小学校のころより木地細工を好み、木彫りの熊や家具類を製作していた。子供のころから手を使う職人になることを夢見ていた。
昭和26年増田営林署に勤務をはじめ、造林作業に従事、杉や唐松の植林を行った。
昭和43年湯沢市岩崎の宮原シュンと結婚し、一女をもうけた。昭和45年に横手市十文字町梨木に自家を構えた。
その後転職して、バス会社やガソリンスタンドの従業員として働いていたが、昭和56年にこけし好きの警察駐在員に小野寺正徳を紹介され、知己の間柄になる。本間功は本来手仕事に関心を持っていたので、小野寺正徳のロクロ仕事に強く魅かれ、ついに小野寺に頼んでロクロを購入し自家に据えた。正徳の助言を得ながら木地を挽くようになった。
本人型のこけしを昭和56年6月頃から製作し、翌57年2月の秋田こけし展では稲川町長賞を受賞した当初は小野寺正徳の作風を踏襲した一般型を製作していた。平成に入り小椋捨次郎小椋英二村田徳次・佐々木邸子の木地下を多数挽いた。特に小椋捨次郎の木地は殆ど全てを受け持ち、捨次郎からの様々な要望に応えた。平成13年ころに伊勢こけし会から小椋捨次郎に描彩を依頼するための木地を挽くように頼まれた。翌平成14年4月に横浜にいた小椋捨次郎が帰郷するにあたって、木地を挽いてくれた本間功に会いたいというので、本間功は捨次郎を十文字の自家に招いた。その折、捨次郎は本間功に小椋泰一郎の木地と描彩を伝授した。以後、本間功は泰一郎型のこけしを製作するようになった。
〈伊勢こけし会だより・107〉に本間功についての中根巌による詳細な報告が掲載された。
平成25年9月には多摩市の小椋英二宅に1ヶ月泊まり込み英二描彩用の木地を挽いた。
平成30年5月より高橋一成を弟子として指導している。

本間功に描彩指導する小椋捨次郎(奥) 撮影:阿部均
小椋捨次郎より指導を受ける本間功 撮影:阿部均 平成14年4月


本間功 撮影:中根巌


本間功 撮影:中根巌

〔作品〕下掲右端は昭和57年作で作り始めて間もない頃の作、小野寺正徳の指導で始めた本人型である。右より二本目も正徳の作風を踏襲しているが、同には木地山標準の菊模様を描いている。
左端二本は小椋捨次郎の指導を受けた後の作で、それぞれ泰一郎、米吉の意匠を写している。
〔右より 18.2㎝(昭和57年)本人型、15.3㎝(昭和59年)本人型、21.5㎝(平成25年)泰一郎型、21.2㎝(平成26年)米吉型(中根巌)〕

下に掲げる写真のこけしは平成12年作、木地山風であるがこの時期にはいまだ小野寺正徳風のフォルムのこけしであった。

〔24.0cm(平成12年)(高井佐寿)〕
〔24.0cm(平成12年)(高井佐寿)〕

下の三本は、小椋捨次郎から泰一郎の技法を伝授された直後のもの、泰一郎型のほぼ初作といっていいだろう。木地のフォルムは完全に泰一郎の型になっている。平成15年2月には18.0cmの泰一郎型が伊勢こけし会で頒布された。

〔右より 21.2cm、18.2cm、18.2cm(平成17年7月)(〈伊勢こけし会だより・107〉)〕
〔右より 21.2cm、18.2cm、18.2cm(平成14年7月)(〈伊勢こけし会だより・107〉)

小椋石蔵型や小椋嘉市型も作っているが、いずれも破綻はなく、原物の作風をきちんと踏襲した作品となっている。


〔右より 24.3㎝(平成29年)小椋石蔵型、17.3㎝(平成29年)小椋嘉市型、20.3㎝(平成30年)嘉市型(中根巌)〕

小椋米吉型の小寸などは技術に走らず、素朴な味を出していた。


〔11.0cm(平成30年6月)(橋本正明) 米吉型

系統〕 木地山系

〔参考〕

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