間宮正男(まみやまさお:1921~2008)
系統:津軽系
師匠:間宮明太郎
弟子:五十嵐嘉行
〔人物〕大正10年3月10日、青森県大鰐の木地師間宮明太郎の長男に生まれる。昭和10年高等小学校卒業後、父の明太郎について木地の修業を行った。木地玩具のズグリ、じょうば槌、柄杓、こけしなどを挽いた。昭和16年頃からは軍需品の需要が高くなり、玩具は殆ど作らなくなった。
戦後は菓子店を開業したが、その傍ら木地も挽くようになった。昭和22年頃からこけしもある程度作るようになった。
昭和24年秋田県大館に行って、木工所の職人として働き、杉の木を用いた花立などを主に挽いた。昭和26年に大鰐に戻り、父明太郎とともに再び大鰐で木地を挽くようになった。注文に応じてこけしも作った。この時期のこけしは描彩は殆ど正男が行い、明太郎の注文には明太郎として、正男の注文には正男として描彩していたようである。
昭和33年から玩具店も開業した。
父の明太郎は、昭和40年頃中風になり、以後はもっぱら正男が製作していた。
嶋津木工所などで木地を挽いていた。
昭和59年頃に鶴岡の五十嵐嘉行がこけしの描彩を習いに来たので、描法を伝えた。
平成20年6月8日没、行年88歳。
〔作品〕間宮正男が製作を開始して以降の間宮のこけしは、明太郎の作か、正男の作か良くわからない。下掲写真の深沢コレクションの4寸は、昭和12年頃のものと思われる。〈深沢これくしょん目録〉では間宮正男となっているが、〈こけし辞典〉では間宮明太郎として写真掲載されている。
〔 12.0cm (昭和12年ころ)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
戦後、〈こけしガイド〉などで紹介された正男の作は、首が極端に細く、胴すそが大きく広がったバランスの悪いこけしであった。
昭和40年代になって再び津軽(大鰐)が脚光を浴びるようになった頃、戦前の明太郎の古品の復元を、正男に依頼するようになり、その時期から正男のこけしも本来の大鰐の形を取り戻した。
下掲写真3本づつ6本は、昭和43年から44年にかけて明太郎の昭和初期の作を復元したものである。
署名は最初は明太郎としていたが、後に正男とするようになった。
〔右より18.4cm(昭和43年2月)、18.4cm(昭和43年8月)、15.0cm(昭和44年)(橋本正明)〕 署名は明太郎であるが正男の作
〔右より 18.3cm(昭和44年7月)、24.1cm(昭和44年4月)、17.8cm(昭和44年7月)(橋本正明)〕 署名 正男
〔系統〕津軽系大鰐亜系 五十嵐嘉行とその弟子橋本恒平、稲田瑛乃が大鰐の伝統を継承するこけしを作っている。