山本与右衛門(やまもとよえもん:1893~1961)
系統:独立系
師匠:
弟子:鈴木豊
〔人物〕 明治26年岩手県盛岡市に生まれる。家は代々の木地師であったという。その後、一ノ関市に転居し、一ノ関でも木地を挽いた。
山本与右衛門のこけしは橘文策によって〈木形子談叢〉で紹介された。同書によると、橘文策は昭和9年春、一ノ関小学校の教員小野寺某の手紙によってその存在を知り、早速注文して入手したという。
与右衛門の家では従来こけしは作らなかったが、その当時ある人から勧められて、こけしの製作を始めたという。
また、昭和13年発行の丹野寅之助著〈東北郷土玩具研究〉では、山本与右衛門のこけしを解説して「これは昭和5年、一ノ関の郊外、千刈田に住む彫刻師玉峯氏(当時80歳位)に作って貰ったこけしの模作である」としている。ある人の勧めというのは彫刻師玉峯の創作こけしの継承であったかも知れない。
ただし、与右衛門自身はほとんど描彩を行なわず、そのこけしの大部分は他の人に依頼して描彩されたものであった。二、三異なる筆法もあり描彩者は複数いた可能性がある。
戦後もこけしを作り続けたが、戦後のこけしは娘の山本光子の描彩であった。
昭和32年、知人であった石材業鈴木東蔵の五男鈴木豊が弟子入りした。半年ほど木地の修業を行い、与右衛門型のこけしも作る様になった。
昭和35年に中風で倒れ、翌年の昭和36年6月6日に没した。行年69歳。
〔作品〕 橘文策によって〈木形子談叢〉の「新作者展望」で紹介されたのは下掲の図版であった。「もともと、こけしを作る家ではなく、勧められて作った創作ではあったが、与右衛門のこけしは、南部系としての要素を基本に置き、その上に「旧来のものには見られなかった感覚的なアウトラインを付与して光彩を放っている。凝って陥り易い混沌さがなく、重厚な中に一種の新鮮味を漲らせた点は成功といえよう。」と橘文策は比較的高い評価を与えていた。
山本与右衛門のこけしは、この〈木形子談叢〉に掲載されたものが、最も魅力的であった。その橘旧蔵のうちの3本は下掲の2枚の写真に示すように鈴木康郎蔵になっている。
下掲写真の右のこけしは〈木形子談叢〉の図版の左端のものと思われる。
〔右より 25.0cm、12.5cm(昭和9年頃)(鈴木康郎)〕 橘文策旧蔵
下掲は深沢コレクションのもの、あるいは橘蒐集品とは描彩者が異なるのかもしれない。表情は乏しく単調になっている。戦後の山本光子描彩も、戦前後期の単調な表情を写していた。
〔 18.8cm(昭和16年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔伝統〕 独立系 〈こけし辞典〉では鳴子系一般型とした。これは〈こけしと作者〉が鳴子系とした分類を踏襲しているのだが、鳴子との影響関係も明確ではないのでここでは独立系とする。
〔参考〕