佐藤直樹

佐藤直樹(さとうなおき:1928~2005)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤雅雄

弟子:佐藤雅弘/佐藤隼雄/高沢肇/高沢紀市

〔人物〕 昭和4年8月18日宮城県刈田郡福岡村字鎌先(現在の白石市鎌先温泉)にて佐藤雅雄の長男(次男:博・三男:雅弘)として生まれる。昭和16年より木地の修業を始めるが、間もなく軍需工場の旋盤工となり、戦後昭和20年より再び木地挽きの修業を再開した。父雅雄は白石の虎屋で職人として働き、昭和22年に亡くなったため殆ど習うことができず苦労した。この時期に東北の訪問旅行中の橘文策が直樹より7寸2本を入手している。昭和25年に鎌先の自宅の轆轤を足踏みから動力に切り替えた。昭和30年頃に結婚、一女を設けた。昭和37年に白石駅前一條旅館支店の番頭となったため製作を中断した。昭和47年復活したが平成元年に廃業。娘の嫁ぎ先である茨城県古河市平和町へ転居した。平成17年4月30日同地で没した。行年78歳。

佐藤直樹
佐藤直樹


左:佐藤直樹 右:佐藤雅弘 昭和36年 撮影:露木昶

〔作品〕 こけしは昭和22年ころより作り始め、本人型といわれるものが主だったが、やがて勘内を意識した型を始めた。描彩は巧みで、眼は父雅雄に似て、理知的な若々しさを感じさせる。昭和35年より鹿間時夫氏のすすめで勘内型と伝内型を作った。直樹は、父雅雄の型を基本にした本人型、勘内型、伝内型の三種類を描き分ける。昭和42年7月に父佐藤雅雄の戦前小寸の写しを木地左京、描彩直樹で行ったが、ほぼ完璧の復元であった。ただしこの復元は一時的なもので継続しなかった。ただ他にも、依頼されて他人(新山福雄新山左京)の木地に描彩したものがある程度残っている。


〔22.0cm(昭和22年6月)(橘文策旧蔵)〕


佐藤直樹 〔19.5cm(昭和25年頃)(寺方徹旧蔵)、27.0cm(昭和30年)(久松保夫旧蔵)〕

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〔(18.9cm(昭和34年)(庄子勝徳)〕伝内型

〔12.0cm, 12.2cm(昭和42年7月)(橋本正明)〕 雅雄型(〈こけし辞典〉原色版と同じ時の作
〔12.0cm, 12.2cm(昭和42年7月)(橋本正明)〕 雅雄型
〈こけし辞典〉原色版と同じ時の作、木地は左京。

〔伝統〕弥治郎系栄治系列。佐藤栄治―勘内―雅雄―直樹とつながる家系。栄治が遠刈田の佐藤周治郎の弟子となったためか、巻き絵のロクロ線の間に重ね菊等の花模様を描くのが特徴である。弟子には弟の雅弘、従兄弟の隼雄、伝吉の外孫の高沢肇、肇の弟である紀市がいる。

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