新山福雄(にいやまふくお:1922~1987)
系統:弥治郎系
師匠:新山福太郎
弟子:
〔人物〕 大正11年6月19日、宮城県福岡村弥治郎の木地業新山福太郎の長男に生まれる。 昭和10年3月福岡小学校を卒業し、直ちに父福太郎について木地挽きの修業を開始した。昭和12年からは小関幸雄が福太郎に弟子入りしたので幸雄とは兄弟弟子になる。昭和13年頃から父福太郎とともにこけしや玩具を盛んに作るようになった。
昭和16年12月に現役兵として入隊、満州に渡った。昭和22年6月に帰還、木地業を再開した。〈鴻〉で作者として紹介されたが、写真紹介は〈こけし・人・風土〉が初出である。昭和26年からは弟慶治も木地を挽くようになったが、昭和29年頃転業した。
昭和40年に父福太郎が他界したが、40年代の戦後のこけしブームの頃には、新山三兄弟の息子の世代、久志、福雄、左京が中心となって弥治郎こけしを支えた。東京のデパートの催しなどにもたびたび協力して参加し、在京の愛好家に喜ばれた。
昭和62年12月11日没、行年66歳。
左:新山久城 右:新山福雄 昭和36年 撮影:露木昶
〔作品〕 戦前の作は〈こけし・人・風土〉、〈こけし辞典〉等に作例がある。両鬢が長く大ぶりの表情をしたおっとりした作風だった。
戦後再開時は地味な作風だったため、あまり騒がれることはなかったが、昭和35年頃から栄五郎型を、また40年代に入って福太郎型を作るようになって、蒐集家の注目を集めるようになった。特に昭和42年7月に小野洸蔵の新山福太郎を復元したものは、胴下端を紫ロクロで締めた粋な意匠で、昭和初期の福太郎の情感をうまく再現できた。また、〈こけし這子の話〉掲載の作り付け小寸の福太郎型の復元も行った。
この頃は、一番脂の乗り切った時期であり、何を作っても一定水準以上の作品が出来た。復元にしても、精神を集中して緊張しながら写すのではなく、面白そうに楽しそうにいくらでも作るという風であった。
〔24.0cm(昭和30年頃)、19.0cm(昭和47年)福太郎型(橋本正明)〕
〔右より 12.0cm(昭和42年7月))〈こけし這子の話〉の福太郎型、24.5cm、18.5cm(昭和42年7月))小野洸蔵による福太郎型復元(橋本正明)〕
〔右より 10.4cm(昭和43年頃)栄助型ペッケ、9.7cm(昭和44年6月)栄五郎型ペッケ、11.0cm(昭和47年頃)、12.5cm(昭和42年7月)〈こけし這子の話〉の福太郎型(橋本正明)〕
〔系統〕弥治郎系新山系列