岡島誠太郎

大正期から昭和初期(戦前)にかけて活躍した関西のこけし蒐集家。専門はエジプト史で奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)教授。

〔経歴〕 

岡島東助商店

明治28年2月20日、大阪で貿易商を営んでいた岡島東助とその妻きくの長男として生まれた。大阪大倉商業学校を卒業後、大正8年には親戚のつてを頼ってイギリスへ留学、ロンドン大学の聴講生として政治経済学を学んだ。しかし一方でこの時期に歴史学を志すようになり、大正10年に帰国した後、大正12年には京都帝国大学文学部史学科に入学した。昭和2年に西洋史専攻を卒業するとそのまま大学院へ進み、龍谷大学講師を経て最終的に奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)に移り、その後の生涯を教授として教壇に立ち続けて送った。昭和23年5月6日没、行年54歳(数え年)。
代表的著作:〈西洋古代文化と地理的環境〉(昭和7年)、〈エジプト史〉(昭和9年)、〈西洋の歴史地理〉(昭和12年)、〈埃及語小文典〉(昭和15年)、〈こぷと語小文典〉(昭和17年〉、〈ナポレオンとエジプト〉(昭和18年)、〈古代エジプト文化:パピルス古文書を中心として〉(昭和21年)
著作の大部分が古代エジプトの歴史や言語に関する日本人初の本格的総論であり、この点から本邦初のエジプト学者と呼ばれている。

教壇の岡島誠太郎教授

〔その人柄と玩具への興味〕 岡島誠太郎は、貿易商の跡取りとして将来を嘱望されながら、エジプト学者としての自分の進むべき道を非常な努力をして切り開いていった。イギリス留学からの帰国後に京都大学を受験するにあたっては、家業の合間を縫うように便所で勉学に励んだという。これは、商家の長男としていずれは家長の職分を引き継がなければならないという責務感と、それでも学問に身を捧げたいという欲求の中での葛藤であって、戦後、家長制度を題材にしたラジオドラマを見ては身につまされて涙していたともいう。最終的には、彼の懸命な姿を目の当たりにした父の東助が、家業を継がせる事を諦め学問の道に進む事を許したのだという。
岡島がこけしに興味を持つに至った経緯は良くわからないが、おそらく
貿易商の跡取りとして幼い頃から西洋文化や西洋美術に接する機会が多かったこと、こうした機会を通じて早くから芸術に対する繊細な感性を育んでいたことなどが一つの要因であったろう。岡島誠太郎の収集癖は、こけしのみならず釣鐘や瓦、木彫り人形、かんざしなどにまで及んでいたという。イギリス留学の際にも彼の地でおもちゃ箱一杯に玩具を買い集めていたようである。学生を引率して満州に行った際には、人物や玩具などをスケッチして絵巻物に残すなどしており、美的なものへの関心や感受性が豊かな人物でもあったことがうかがえる。
また、岡島誠太郎の人柄は〈奈良女高師新聞・第15号〉で次のように紹介されている。「先生の拓本や郷土芸術品の蒐集にうかがわれる広い趣味や、古今東西を問わぬ該博な知識は、先生の学問の視野を広くしていると共に正統的な歴史研究の方法はその趣味や知識を単なる好事家的のものに止まらしめなかった、加えるにキリスト教に対するゆるぎない信仰、学生に対する教育者としての熱烈な愛情、学問探求への情熱が渾然一体となって豊かな先生の情熱を作り出している」。
学問に対しては厳格であり、その精神集中には神経質なくらいであったが、一方で一人娘の汀子を大切にし、静かに、穏やかに、常に遠くから家族を見守り続けているような人物だったらしい。

岡島誠太郎の家族

〔こけしとのかかわり〕 こけしの蒐集活動は、主に大正10年の帰国くらいから戦前まで京都、奈良ですごした時期と思われる。おそらく関西の玩具人達とも交流があっただろう。蒐集の方法は〈こけし這子の話〉〈日本郷土玩具・東の部〉等をもとに直接手紙で注文したものもあり、橘文策の 木形子洞頒布等で入手したものも多いように思われる。橘文策の〈こけしざんまい〉に は〈木形子研究〉刊行の頃の話として「京都では、奈良に移った岡島誠太郎氏が、京都大学にいたころ、歴史学の連中に同好の士が二、三いた。岡島氏は戦後まもなく亡くなったが、他の人達はみんな名誉教授になっている」と言う記述があり、また〈木形子異報・3〉に木形子夜話会(昭和9年2月)に岡島誠太郎が参加していて経験談感想談を行なったとの記述および参会者の合同写真等が散見される。さらに寄稿としては〈 木形子異報・1〉には「奈良にも 木形子類似品がある」(法連町の坊南幽光氏の作る創作物の紹介)、〈 木形子異報・8〉「コケシのために警察へ」(作者に送金してもなしの礫であったためやむをえず警察に調べてもらった話)、またこけしに関してではないが〈旅と伝説・8月號〉(昭和10年)「傳說に因む奈良・和歌山二縣の鄕土玩具 」、〈郷土玩具・第3巻第6号〉(建設社・終刊号、1935年11月)「玩具の旅」などがある。
戦後こけし界で、岡島誠太郎の名前に関心が集まったのは、没後そのこけしコレクションが奈良の古本屋に売りに出され、蒐集家中屋惣舜がそれをまとめて購入したことが報告されたからである〈こけし手帖・62〉。これが中屋コレクションの中核となったが、そのこけしは武井時代(武井武雄の〈日本郷土玩具〉に触発されて蒐集活動が行なわれた時代)、橘時代(木形子洞頒布を軸に蒐集した時代)に確かな審美眼を持って形成された良質な作品群であった。
中屋惣舜に渡った主なこけし:高橋胞吉(8寸)、小椋久四郎(9寸)、藤井梅吉(尺)、阿部金蔵(8寸)、伊豆定雄(尺)、新山栄五郎(8寸)、大内今朝吉(6寸)、佐藤巳之吉(7寸5分)、佐久間米吉(6寸)、小林善作(8寸)、岡崎栄作(9寸)等約40本。

岡島誠太郎と木地山小椋久四郎のこけし

本項目の記載は、主に京都大学 坂本翼の〈こけし手帖・698〉の寄稿「岡島誠太郎の素顔」によった。

〔参考〕

  • 中屋惣舜:思い出のこけし〈こけし手帖・62〉(昭和42年12月)
  • 坂本翼:岡島誠太郎の素顔〈こけし手帖・698〉(平成31年3月)
  • 橋本正明:岡島誠太郎のこけし蒐集〈こけし手帖・698〉(平成31年3月)

 

 

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