佐藤好秋(さとうよしあき:1906~1991)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤松之進
弟子:佐藤好一/我妻吉助/我妻市助/大宮正男/今野幹夫/今野かしく/小室由一/佐藤一成
〔人物〕 明治39年11月20日、遠刈田新地佐藤松之進・あきの次男として遠刈田新地に生まれる。大正8年尋常小学校在学中より、松之進につき木地修業。コマ・ヤミヨ等を作った、松之進長男松三郎は夭折、三男進は27歳で死亡、四男正人は巡査となったので、木地の後を継いだのは好秋と五男友晴であった。大正12年蔵王高湯の萬屋斎藤藤右衛門方にて職人として働き、初めてこけしの描彩をした。その後最上郡及位の佐藤文六方で数ヶ月、自宅、昭和2年福島市仲間町の菅野菊好堂で半年、昭和10年花巻市石田雄治方で半年、平の佐藤誠方で3ヶ月職人をしたことがある。その後は新地の自宅にいたが昭和8年、後に佐藤吉之助が住んだ小屋でタービン水車によるロクロを使用して営業を始め、昭和10年に我妻吉助、昭和12年我妻市助、さらに昭和13年には大宮正男が弟子入りした。ここではこけし・雑器・盆類を挽いたが、昭和15年東北電力の水利権買収により遠刈田温泉(現在の三浦電器店南隣)に電力の木地工場を作り営業を再開、戦争末期には軍需品を中心に挽いたという。戦後は新地の自宅に戻り敷地内で営業を始め、昭和22年に動力ロクロを導入、息子好一、今野幹夫、小室由一等を弟子とした。昭和40年頃より特別な場合を除いて描彩のみとなった。平成3年4月1日没。享年86歳。妻鈴江との間に長男好一、長女かしくがいる。
佐藤好秋 昭和15年 〈鴻〉より
左:我妻市助 右:佐藤好秋 昭和17年8月29日 撮影:田中純一郎
〔作品〕 蔵王の萬屋で初めて作った物は残っていない。現存品はタービン水車工場を始めた昭和8年以降の物であるが、昭和15年〈鴻〉頒布以前の物は製作数も少なかったためか残る物はあまりない。筆は若干硬いがこの時期の好秋は松之進の作風をしっかり受け継いでる。この時代は一側目に猫鼻を描いた物が比較的残ってるが、あるいはあまり描くことが好きでは無かったのかもしれない。戦後20年代は作る本数が多くなったためか、描彩もこなれたものになっていった。30年代になると胴模様など筆圧が一様になって単調な描法になる。35年以降は目の位置が少し上部にずれて、少女のようなあどけなさから成人の女性の表情に変わっていった。この頃の面相は専ら割れ鼻のみで猫鼻は確認できない。昭和41年、たつみの奨めにより自身の復古作(〈古計志加々美〉の96、〈こけし美と系譜〉掲載の中屋蔵7寸も同種)を作るようになってからは猫鼻を再び描くようになった。昭和42年頃描彩のみとなった時期に、頭の角張ったこけしが多くみられるようになったが、3年程度で以前の形に戻っている。同時期以降、土橋慶三に指摘されたことにより8寸以下の重ね菊模様は亡くなるまで3段で定着する。昭和50年代以降は筆勢も落ち作柄の低下が目立ったが、86歳で亡くなるまで作り続けたことは大きく評価されてよいだろう。
〔右より 24.7cm(昭和14年)(溝口三郎旧蔵)、29.8cm(昭和14年)(加賀山昇次旧蔵)〕
〔右より 21.0cm(昭和14年)、30.0cm(昭和14年)、12.0cm(昭和42年)(中屋惣舜旧蔵)〕
左端は「たつみ頒布」のもの
〔右より 21.2cm(昭和41年1月)〈古計志加々美〉96の復古作(たつみ頒布)、
13.5cm(昭和44年)(橋本正明)〕
〔伝統〕 遠刈田系吉郎平系列松之進家。兄弟には松三郎、進、正人、友晴がおり、後継者に長男好一、長女かしく、弟子の我妻吉助、我妻市助、大宮正男、今野幹夫、小室由一、そして孫の一成がいる。