佐藤甚吉(さとうじんきち:1901~1978)
系統:肘折系
師匠:佐藤文六
弟子:
〔人物〕 明治34年3月24日、山形県最上郡戸沢村字金打坊の農業佐藤甚蔵の家に生まれる。父甚蔵の姉サクは最上郡及位の木地業佐藤文六の後妻となっていたので、甚吉はその縁から大正2年13歳より佐藤文六について木地の修業をした。大正7年18歳の時、年期は明けていなかったが、及位を離れ、福島県飯坂、山形県小野川の岡崎久太郎方、栃木県日光の松本木地屋等と転々として働き、大正8年9月に金打坊に戻った。同年10月及位に戻り、文六の養女としをと結婚して夫婦養子となった。としをは遠刈田の佐藤茂吉の五女である。
大正11年長男文吉が生まれる。この頃再び諸国を遍歴して、岩手県湯田、群馬県沼田などで働いた。
昭和元年25歳以後は及位に腰を据え、佐藤文六の及位木工所で働いた。昭和9年に農林省農村振興助成金1,600円をもとにして落合滝(及位駅より約1km南)に設立された及位ロクロ木工組合工場 に、佐藤文六や佐藤誠次とともに加わって働いた。この工場は昭和18年頃まで続いたが、戦争激化に伴い、軍需産業での労働力が要求されるようになり、同年10月に操業を終えた。
戦後は及位駅前に作業場を建てて木地業を続け、昭和46年まで轆轤を回した。ただし、小物や玩具はほとんど挽いていない。
昭和53年6月1日及位にて没。享年78歳。
左:佐藤甚吉 右:佐藤丑蔵 後ろは甚吉の作業場。
〔作品〕 修業時代にはこけしも盛んに作ったと言うが、その時期の作品は現在残っていない。昭和42年に有色材でこけしを数本挽いたが、残されている物は木地と著名のみで、描彩は文吉の代筆であった。
〔系統〕 肘折系文六系列 長男の文吉は文六・丑蔵の流れをくむこけしを作った。