佐藤丑蔵

佐藤丑蔵(さとううしぞう:1889~1986)

系統:肘折系

師匠:佐藤文平/佐藤文六

弟子:石川清志/高橋勇次郎/高橋市太郎/高橋国四郎/菅原宗次/小林健治/小林三治/小林光一/小林栄二/小林英一/小林善作/佐藤文吉/佐藤光保

〔人物〕明治22年3月4日、宮城県刈田郡遠刈田新地の佐藤文治、はるの長男に生まれる。三治、誠次は弟。15歳のとき、青根の丹野倉治方で職人をしていた叔父佐藤文平について約一年間木地を習ったが、その後二年間は木地挽きに従事せず、山仕事や人夫仕事を主にやった。
明治39年4月18歳のとき、肘折へ行き、叔父佐藤文六の弟子となり、21歳まで働いた。この間39年7月に父文治が危篤の報を受け一時遠刈田新地へ帰り、父文治が亡くなった後11月に再び肘折へ戻った。当時文六は肘折の尾形政治商店の下請けをしており、職人を抱えて木地製品を製作していた。明治42年9月徴兵検査にため帰郷して遠刈田新地で独立し、11月20日にたまよと結婚した。明治43年、文六に電報で呼ばれて肘折に行き、翌44年に文六が及位へ行くのを助けるとともにその後の尾形政治の仕事を継承した。しかし尾形からの処遇に不満があり、その年のうちにあと始末をして及位の文六のもとへ移った。このとき、あるいは一時新地に帰郷したかもしれない。
大正4年、尾形政治の要請により再度肘折へ行き、政治に協力して河原湯の近くに最上木工場を作り、その主任となった。最上木工場は最盛期には五十人近い職人が働いていた。大正7年12月、及位にいた弟佐藤三治が肘折へきて尾形政治の姪留江と結婚したのを機に、尾形木工場の仕事を三治にまかせて及位へ移った。大正10年岩手県和賀郡の補助で湯田で開催された木地講習会に講師として招かれた。この講習会に力を入れたのは柏崎利左衛門(郡会議員)と小林辻右衛門であった。講習会の後小林辻右衛門は現在の山田旅館の隣りに木地工場を作ったので、丑蔵は工場指導員としてそのままこの工場にとどまった。工場の設備は最初は足踏みロクロ三台、のち発動機を一台入れて動力を併用し、昭和2年大体同じ設備で鈴のや旅館の下手の川端へ移転した。
昭和5年〈日本郷土玩具・東の部〉で作品が紹介され、橘文策の〈木形子〉で丑蔵の名前が紹介されて、こけしの注文も多く来るようになった。
昭和12年には及位から佐藤文吉が来て丑蔵のもとで修業している。
昭和13年に花巻の長寿庵に依頼されて、新意匠のデザイン指定のこけしを製作したことがある。それらは小田島邦太郎名義で長寿庵から販売された。

 
佐藤丑蔵 湯田時代  撮影:田中純一郎

上掲は湯田末期の昭和16年頃の写真であるが、「湯本温泉おみやげ 木地細工品製造販売 小林木工所」の看板が掲げられている。
昭和17年、丑蔵は盛岡市にある県の職業補導所へ勤めることになり、湯田を出て岩手県紫波郡の日詰に下宿してそこから通勤した。このとき各地へ出張することが多かったという。その後、盛岡の小林栄治経営の軍需工場へ勤めた。
湯田を出たといっても、湯田の小林辻右衛門のところとはしばしば往来していたが、昭和20年2月、旧正月の休みで湯田へ行った帰りに黒沢尻(現在の北上)で汽車の都合で下車した際、エンジンの掛からない自動車を押すのを手伝って、自動車と電柱の間にはさまれて重傷を負い、黒沢尻で40日間入院、3月に遠刈田へ戻り刈田病院へ三ヵ月間入院して治療をした。
退院後は新地の自宅に落ち着き、木地を挽いてこけしも多く作った。自宅居間の奥にある作業室に足踏みロクロを据えて、蒐集家の求めにも気安く応じてくれた。戦後の第2次こけしブームの時には遠刈田の長老として実力・人気ともに中心的な役割を果たし活躍した。晩年まで足踏みロクロでこけしを挽いていたが、昭和43、4年ころより描彩が主体で木地はほとんど挽かなくなった。
昭和56年勲六等瑞宝章を受けた。
昭和61年6月1日長男の文男が病没、同年昭和61年9月2日に丑蔵も没した、行年98歳。

湯田時代の弟子には、石川清志、高橋勇次郎、高橋市太郎、高橋国四郎、菅原宗治、小林健治、小林三治、小林光一、小林栄二、小林英一、小林善作、佐藤文吉などがいるが、肘折、及位時代の文六の弟子のうちにも実質的には丑蔵に習ったといってもよい工人が少なくない。

湯田時代の佐藤丑蔵

遠刈田へ戻った昭和20年以後の弟子には次男の光保がいる。後継者の長男文男は木地を丑蔵でなく佐藤文助に習っている。ただ、文男によって丑蔵の最盛期のこけしの多くが復元された。

正義感があって、若いころは非常に気が短かったという。菅野新一著〈山村に生きる人々〉によれば、大正6年に行なわれた新地の木地屋のストライキの主諜者で、そのために間もなく新地を出たというが、当時の遠刈田の商店の過酷な経営と、丑蔵の若いころの性格とを考え合わせると、主謀者となったとしても不思議はない。ただ大正6年には丑蔵は肘折にいたはずで、丑蔵が参加したとすれば、明治40年代にストライキがあったのではないかと思われる。そうであれば、このストライキのため新地を去って秋保へ行ったという佐藤治平の秋保村立職工学校への就職年月日が〈こけし手帖・33〉掲載の「深沢要遺稿集」では大正2年2月22日なっているのにも合致する。 

若い頃は正義感が強く短気だった丑蔵も、多くの弟子を養成する地位に立つようになって次第に円満な性格に変わっていったような印象を受ける。木地の技術は秀れ、刃物の切れがよく、仕事も早かった。そして量産を得意とする工人だったともいわれる。木地師としてもこけし作者としても名工といってよいであろう。


右:佐藤丑蔵 左:佐藤甚吉 及位にて


佐藤丑蔵 昭和40年


佐藤丑蔵


右より 佐藤丑蔵、奥山喜代治、佐藤三治  (昭和45年・肘折にて)


佐藤丑蔵 昭和56年  撮影:武田利一

〔作品〕天江コレクションに正末昭初の佐藤丑蔵が3本ほどあり、また川口貫一郎蔵品中にも天江富弥から送られた同趣の一本があった。下掲写真はその中の二本である。
但し、昭和3年刊行の〈こけし這子の話〉には掲載されていない。武井武雄は昭和5年刊行の〈日本郷土玩具・東の部〉で湯田のこけしとして丑蔵作を掲載したが、その時の作者名は湯田木地工場主の小林辻右衛門であった。こけし作者佐藤丑蔵の名が知られるようになったのは橘文策の〈木形子〉以後であった。
そうした状況の中、下掲のような丑蔵作はほとんど蒐集界に知られておらず、昭和53年の神奈川県立博物館〈こけし古名品展〉に川口貫一郎蔵品が出品されたときには大きな話題となった。
純然たる遠刈田の作風からは大きくはなれ、肘折風と言ってもかなり独特な様式で、迫力あり存在感抜群の作品だったからである。特に右端のこけしについてはその頭の形状から蒐集家たちはフランケンと呼んだりした。フランケンシュタインの頭のようだという意味であった。しかし、この型は決して一時的なものではなかったようである。丑蔵の弟子たち、例えば高橋市太郎が兵役から帰って復活した最初の作品は、このフランケンを思わせるものだった。当時かなり一般的に湯田で作られていた様式だったのだろう。ただしこの様式のこけしを丑蔵自身はその後あまり継続して作らなかった。


〔右より 28.5cm、25.5cm(正末昭初)(高橋五郎)〕 天江コレクション

武井武雄が昭和4年2月に小林辻右衛門に注文して入手した作品が、〈日本郷土玩具・東の部〉に掲載されている。肘折風の重量感は十分感じられるが、基本的には遠刈田様式の作品となっていた。下掲の作品、特に右端の小寸は武井時代とほぼ同じ年代であろう。胴底は切り離しである。


〔右より 10.0cm(昭和4年)(鈴木康郎)深沢省三旧蔵、19.8cm(昭和5年)(河野武寛)酒井利治旧蔵〕

下掲2本およびその下に深沢コレクションの6本を掲げるが、いずれも昭和4~5年から昭和10年頃までの作例で、頭はやや縦長、全体にスラリと丈高く、面描には筆勢とメリハリが利いて丑蔵らしさの最も現れた作品群である。胴底は基本的に通し鉋で、丸い穴が開いている。


〔右より 26.0cm(昭和8年)(鈴木康郎)、26.0cm(昭和8年頃)(北村育夫)〕


〔右より 27.9cm、19.1cm、32.4cm、11.2cm、28.8cm、17.3cm(昭和6~10年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

下掲は昭和10年代中期から後期の作品、胴がくびれたり、胴中央にロクロ線を加えて帯状にしたり、最下段の花の形状を変えてみたり、いろいろな工夫を加えるようになる。昭和13年デザイン指定の製作依頼が花巻の長寿庵からあり、小田島邦太郎名義のこけしを作ったが、そうした新意匠による刺激もあったかもしれない。


〔右より 33.0cm(昭和14年頃)(植木昭夫)、22.5cm(昭和18年7月)(鈴木康郎)〕

戦後昭和20年代から30年代前半は当時の遠刈田全般的な風潮に合わせた甘い作風のものが多かった。下掲右端はそうした時代の作例で、笑い口にややひょうきんな表情のこけしである。
右から2本目以降は、戦前の古品を再現した作で、東京こけし友の会、たつみ、備後屋などから売り出された。こうした一連の作をとおして戦後の甘い作風から復帰し、小寸の作り付けや、地蔵型なども含め、自分の本来のこけしを思うままに生み出すようになった。


〔右より 25.0cm(昭和34年)、23.6cm、24.6cm(昭和40年)、27.3cm、24.7cm、20.1cm(昭和41年)(橋本正明)


〔右より 25.7cm(昭和41年)、34.5cm(昭和43年)、30.5cm(昭和44年)(橋本正明)〕

下掲のこけしの右端は武井武雄旧蔵の〈こけし愛蔵図譜〉の型、左端は酒井利治旧蔵の型である。


〔右より 28.1cm、20.1cm(昭和45年)(橋本正明)〕


〔右より 10.4cm(昭和42年)、15.5cm、15.2cm(昭和40年)、16.1cm、15.4cm(昭和42年)、14.1cm(昭和43年)(橋本正明)〕

[遠刈田 佐藤丑蔵の地蔵型〕
〔遠刈田 佐藤丑蔵の地蔵型 (昭和40~42年)〕

職人肌を最後まで持ち続けた工人で、依頼されると気軽に何でも手早く作ってくれた。遊び心もあって、特に晩年の小寸作り付けには邪心のない無垢な手わざが躍動していた。

遠刈田で技術を身につけ、肘折、及位、湯田で多くの工人を指揮して仕事を続けた。こけし作品も時代によって変化があり、その意匠の幅も広かった。

〔伝統〕肘折系文六亜系 佐藤丑蔵の型は佐藤文男によって体系的に復元され、また孫の佐藤英裕もその型を継承した。また湯田の多くの作者たちも丑蔵のこけしを出発点として個々の型を完成させた。丑蔵自身には、自分がどのような伝統というより、自分自身の作るものが伝統だというような気概があった。

 

〔参考〕

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