佐藤乗太郎

佐藤乗太郎(さとうのりたろう:1903~1973)

系統:鳴子系

師匠:高橋武蔵

弟子:

〔人物〕 明治36年10月6日 山形県最上郡最上町向町の農業佐藤好治郎・コンの四男に生まれる。大正5年3月東小国小学校を卒業後、鳴子の高橋武蔵について木地の修業を行った。年期があけた後も、高亀で長く職人として働いた。佐藤養作は高亀に大正12年に弟子入りした弟弟子である。昭和2年向町に戻り、独立して木地業を始め、製品は瀬見温泉や赤倉温泉で売った。この頃こけしも製作した。昭和6、7年頃には鳴子の高亀の店で製品の製作を手伝ったこともある。木地を挽いていたのは昭和11年末までで、この頃兄の三治郎が亡くなったため転業して兄の米穀屋を継いだ。昭和19年以降は精密木工会社に入社、昭和41年に退社するまでそこで働いた。晩年は眼を悪くした。昭和48年8月20日没、行年71歳。

佐藤乗太郎  昭和45年

〔作品〕 向町で作り始めてからしばらくの間は、瀬見温泉に出して売っていたため、作者不明の瀬見こけしとして蒐集家の手に渡っていたものがある。〈こけしと作者〉に瀬見作者不明として紹介された7寸8分は乗太郎の作であった。〈古作図譜〉に載った一筆目の鹿間時夫旧蔵の7寸3分(No.266)も、その時代の作例である。下の写真の鈴木鼓堂旧蔵品2本も瀬見作者不明として蒐集されたもので、昭和初期の作例である。

〔右より 18.3cm、15.2cm(昭和初期)(鈴木鼓堂旧蔵)〕
〔右より 18.3cm、15.2cm(昭和初期)(鈴木鼓堂旧蔵)〕

佐藤乗太郎が、こけし作者として作品写真とともに紹介されたのは〈郷土玩具・東の部〉(昭和5年)が最初である。この本の著者武井武雄は、「鳴子で修業しただけに作風は完全に鳴子を踏襲して一歩も踏み出すことをしていない。」と書いたが、それだけ鳴子で堅実な修業を積んでいたことがわかる。〈古計志加々美〉では「ほぼ師匠に似た作行きではあるが、眼が頗る小さく、眉間が極度に離れているのが特色である」と解説している。
下に写真紹介のものは石井眞之助旧蔵品、〈こけしと作者〉に乗太郎として紹介されたものと同時期同種の作例である。乗太郎として蒐集家に渡ったこけしの最も典型的なものであろう。

〔29.8cm(昭和7年頃)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵
〔29.8cm(昭和7年頃)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵

鹿間時夫は〈こけし辞典〉で、「概してこの人の描彩は現在の高亀工人群に比べると、はるかに個性的で、ロマンチック、情が深い。これは時代の差か、向町で独立した気持ちのゆとりかいずれにしても研究に値する問題である。」と書いた。
おそらく、筆法自体は乗太郎の個性による違いであろうが、昭和2年に鳴子を離れたので、殆ど大正期の鳴子の雰囲気や匂いのようなものは、ずっと保ち続けることが出来たのであろう。

〔右より 12.4cm(昭和9年頃)米浪庄弌旧蔵、11.0cm(昭和10年頃)橘文策旧蔵、9.3cm(昭和10年頃)(鈴木康郎)〕
〔右より 12.4cm(昭和7年頃)米浪庄弌旧蔵、11.0cm(昭和7年頃)橘文策旧蔵、9.3cm(昭和7年頃)(鈴木康郎)〕


〔 28.5cm(昭和7年頃)(河野武寛)〕 米浪庄弌旧蔵

戦後は昭和43年頃、大阪の蒐集家佐藤俊郎が乗太郎を訪ね、他人木地に描彩させたものが少数残っている。〈山形のこけし〉に作例が載る。ただ昭和45年以降目を悪くして描彩もできなかったので戦後の描彩は一時的なものであった。

系統〕 鳴子系直蔵系列 高橋正吾が佐藤乗太郎型の復元を行なった。

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