佐藤文吉(さとうぶんきち:1922~2008)
系統:肘折系
師匠:佐藤丑蔵
弟子:
〔人物〕 大正11年8月14日、山形県最上郡及位(のぞき)の佐藤甚吉・としをの長男に生まれる。母としをは遠刈田の佐藤茂吉の五女であり、3歳の頃佐藤文六の養女となった。また甚吉の叔母サクは佐藤文六の後妻に入っていたので、その縁で甚吉はとしをと結婚して文六の婿養子となった。従って文吉にとって、佐藤文六は戸籍上の、佐藤茂吉は血縁上の祖父にあたる。
昭和12年3月及位高等小学校を卒業後、しばらくの間、学校から頼まれて手伝いをしていたが、同年8月19日より文六の計らいで、岩手県湯田にいた佐藤丑蔵のもとに行って木地の修業を始めた。丑蔵は文六の甥である。昭和13年10月17日に及位に戻り、落合滝の及位ロクロ木工組合工場で祖父や父とともに木地を挽いた。製品は横木が殆どであったが、こけしも依頼により少数は作ったという。
しかし、文吉は木地挽きを続ける気はなく、昭和14年4月に文六には内緒で横手の国鉄入社試験を受けて合格するが、文六の許可は得られず、やむなく木地業に戻ることになった。
昭和18年8月22歳で応召、北満州(黒河省)、浜松、フィリピン、仏印を経てサイゴンで終戦を迎えた。昭和21年5月に帰還した。
昭和23年4月17日に院内の金子禮蔵次女トシと結婚した。木地業は横木を主に行っていたが、昭和24年末より二ヶ月ほど遠刈田の佐藤光保の依頼で新型こけしの木地下を挽いた。
昭和25年3月に祖父の佐藤文六が亡くなった。腰を据えて木地業を一生の仕事にすることを文吉がこころに決めたのには、この祖父の死が大きな契機となったいた。戦後のこけしもこのころから少しづつ作るようになった。昭和29年刊行の〈こけし・人・風土〉に戦前作が写真掲載され、工人としても知られるようになった。昭和30年、映画監督でこけし愛好家だった田坂具隆や、蒐集家の大浦泰英にこけし製作再開を強く勧められ、比較的多くこけしを作るようになった。昭和31年に東京こけし友の会の頒布品として注文を受け、以後は継続的に製作するようになった。
昭和30年代、40年代の戦後のこけしブームの時期には、最も人気の高い工人のひとりであった。
文吉自身がこけし製作にかける熱意や情熱は非常に強く、作品の質を高めるための模索や精進の姿からは、こけしに自己存在のすべてを懸けているかのような気迫すら感じられた。
昭和50年と51年の2年続いた集中豪雨とその鉄砲水で、自宅工場に大きな被害を受けた。また年齢からくる腰痛などで用材の山出しといった作業が徐々に負担になっていたこともあり、決意して昭和52年及位より天童市中里へ一家で移住した。
天童においても継続的にこけしの製作を続けた。
平成20年7月3日没、87歳。
〔作品〕 極初期の作品は深沢コレクションにある。深沢要の及位訪問は昭和13年10月であるが、帰京は11日と〈こけしの追求〉「動く産地」にあるから、同月17日に湯田から帰郷した文吉とは会ってはいない。下の写真の深沢コレクションは湯田時代のものか、あるいは及位から送られたものかわからないが、表情には湯田の丑蔵の面影が見える。
下掲の写真は、〈こけし・人・風土〉に掲載された鹿間時夫旧蔵のもの。胴底には「佐藤文吉」のゴム印があり、このゴム印は文吉が国鉄の入社試験を受けるために横手に行った時作ったもの。昭和14年の一時期のみ使用された。
下掲右端は上掲写真のもの。左端の中屋惣舜旧蔵品は、昭和15年頃の作、佐藤誠次の面描、胴模様に似る。誠次はこの頃、文六・甚吉らとともに及位の落合滝の工場で働いていた。
〔右より 20.0cm(昭和14年)(鹿間時夫旧蔵)、26.1cm(昭和15年)(中屋惣舜旧蔵)〕
戦後も製作数は少なかったが少しづつ作っていた。
〔右より 15.2cm(昭和21年10月)、15.1cm(昭和21年)(高井佐寿)〕
本格的なこけし製作の再開は、昭和31年の東京こけし友の会頒布以後である。
蒐集家の矢内謙次は〈こけし手帖・73〉で、戦後の文吉の年代変化を論じている。
下の写真は、矢内謙次が第1期とする昭和31年から35年までの各年の作例である。33年頃までの作品は頭がやや縦長で、最晩年の文六に通じる作風である。昭和34年頃から、徐々に文吉の作風が固まってくる。左端の二本は、長く院内の駅の売店にあって売れ残っていたもの、この手の地蔵型は5本ほどあった。
矢内謙次は、第1期のこけしを、「種々独自の工夫を凝らしている」「筆が細く、特に手絡の筆致は弱々しい」「頭が長く、目は幅広で左右の長さは短く、ひょうきんな表情」「未完成の面白さ」と書いている。
〔右より 25.7cm(昭和31年)、24.6cm(昭和32年)、36.7cm(昭和33年8月)、25.0cm(昭和34年)、24.5cm(昭和34年10月)、15.0cm、18.8cm(昭和35年秋)(橋本正明)〕
第2期は昭和36年から37年の作。いわゆる文吉のピークといわれる年代である。矢内謙次は「頭は丸みを帯び大きく、細めの胴とよくマッチ」「目は細く、長く、大きく彎曲し、筆致鋭く、太い眉とのバランスの妙」「甘美派であっても、アルカイックスマイルが横溢」と絶賛した。
〔右より 32.6cm(昭和36年10月)、24.3cm(昭和37年)(橋本正明)
矢内謙次は、第3期昭和38年から39年を低迷期、「情味が薄く」「形式のみを追い、さみしさのみが残った」と書いた。37年に義弟二人を相次いで失くし、また佐藤誠次も逝った空虚感によるのだろうと言っている。
第4期は昭和40年以後で、再び生気を取り戻す、そのきっかけは鹿間時夫旧蔵の佐藤文六作品への挑戦であったという。この時期は大寸の文六大名物を追求すると同時に、各種の小品も多く作った。下の写真は、そうした小品を並べているが、それぞれ工夫があって楽しい作品となっている。
〔右より 13.0cm(昭和43年4月)、13.2cm(昭和43年7月)、15.5cm(昭和43年9月)、17.0cm、15.8cm(昭和43年8月)、20.2cm(昭和46年12月)、13.0cm(昭和44年7月)(橋本正明)〕
矢内謙次の盟友北村勝史は〈木の花・8〉の「戦後の佳作」に佐藤文吉を取り上げた。北村は佐藤文吉のピークを、昭和36~7年と昭和39年末~43年末の二つの時期という。
ただ第2のピークの終焉が43年末かというと必ずしもそうではないだろう。下の写真では右より3本目は昭和44年7月作であるが、横に膨らんだ頭にやや湾曲した眉と目が描かれていて、表情安定しており、武井武雄旧蔵品の存在感をきちんと表現し得ている。
とは言っても昭和44年以降になると、優れたものと並のものとのばらつきが出てきてはいるかもしれない。第1のピーク時の自然体の作風が、第2のピーク期ではかなり求道的な姿勢に変わっていたから、自意識の働きが時に思わぬ成功を収めることもあり、またバランスを崩すこともあった。第2のピーク以降は、年代でというより、個々の作で残るべきものを選ぶのだろう。
〔右より 31.0cm(昭和41年9月)、20.0cm(昭和42年2月)、31.8cm(昭和44年7月)、25.0cm(昭和44年6月)(橋本正明)〕 右より三本目は〈愛蔵こけし図譜〉の武井蔵品のイメージをもとに製作したもの
〔右より 22.0cm(昭和43年8月)、15.1cm(昭和46年6月)、24.3cm(昭和43年8月)(橋本正明)〕 斎藤伊之助型 両端の伊之助型はこけし夢名会第一回頒布のための復元第一作
平成に入ると面描の筆の動きがややぎこちなくなってはいるが、作品の様式自体はあまり変わっていない。ただ向かって右の目が、左の目に比べてやや小さくなる傾向があった。
{右より 24.2cm、24.8cm、18.7cm、18.5cm、31.5cm(以上平成2年)、18.5cm(平成3年)、16.1cm、23.3cm、20.6cm、13.6cm(以上平成5年)(高井佐寿)〕 〈伊勢こけし会たより・138〉より
文吉の全生涯にわたる作品120本余の紹介と解説は、〈伊勢こけし会たより・138〉で高井佐寿が行っており、文吉の年代鑑別を行う場合の標準となる。
文吉の作品、あるいはその工人気質に惚れ込んで、一途に収集した愛好家は少なくない。
下の写真は、平成の文吉こけしを周到に揃えて解説した〈木でこ・190〉の渡辺格稿で紹介された遺作。6月28日に脳梗塞で倒れ、7月3日に不帰の人となるが、6月27日に挽いた4本のうちの1本であるという。
〔19.1cm(平成20年6月27日)(渡辺格)〕 遺作 〈木でこ・190〉より
〔伝統〕 肘折系文六系列
〔参考〕