佐藤重之助

佐藤重之助(さとうじゅうのすけ:1930~1997)

系統:肘折系

師匠:佐藤寅之助/佐藤周助

弟子:我妻勉

〔人物〕 昭和5年10月20日山形県最上郡大蔵村肘折の木地業佐藤寅之助長男に生まれる。佐藤周助は祖父、周助は重之助が10歳のときに亡くなった。昭和19年15歳のころより父寅之助について木地を学んだ。昭和21年より秋田木工(株)に勤務、葉山および升形で働いた。昭和32年、升形で千代子と結婚、まもなく秋田木工(株)を退社し、肘折に戻った。その後は出稼ぎと大工仕事を主に行っていたが、その合間に少しづつこけしや木地玩具を作るようになった。昭和35年頃から、こけし製作にあてる時間の比重が高くなった。昭和43年頃に仙台の叔父佐藤巳之助についてダライバンによる挽き方を学び、その後ロクロとダライバンを併用するようになった。白石の我妻勉にこけし製作の指導を行った。肘折の貴重な作者であったが、平成9年7月6日原木伐採中の不慮の事故により落命した。行年68歳。

佐藤重之助 昭和43年

佐藤重之助 昭和43年

〔作品〕 初期の作品として昭和35年ころからのものが蒐集家の蔵品中に残っている。初期の重之助を絶賛したのは中屋惣舜であり、〈こけし手帖・53〉の「私の選んだ十工人」の一人として、重之助を取り上げている。また〈木の花・第5号〉では「初期 重之助のこけし」という題で、昭和35年8月から昭和41年までの自分の持っている重之助12本を写真紹介し、品評と解説を加えている。中屋は昭和35年より41年までのものを初期と定義した。ここに掲げた昭和36年1月の作は、極初期に近い作であり、素直で作為のない自然さが魅力である。
〔19.3cm(昭和36年1月8日)(橋本正明)〕
〔19.3cm(昭和36年1月8日)(橋本正明)〕

昭和40年代になると表情ややきつくなり、祖父周助の雰囲気を追うような作風に変わっていく。仙台の巳之助が都立家政のこけし店たつみの依頼で周助型を作り始めて注目を集めた時期であり、その影響もあったかもしれない。

〔右より 15.2cm(昭和41年4月)、19.2cm(昭和42年7月)、15.5cm(昭和42年11月)、12.3cm(昭和43年)(橋本正明)〕
〔右より 15.2cm(昭和41年4月)、19.2cm(昭和42年7月)、
15.5cm(昭和42年11月)、12.3cm(昭和43年)(橋本正明)〕

そうした周助風のこけしを作るのと同時に、頭部の小さい胴の太い小寸物なども作り始めた。一部の蒐集家はチェスの駒の様だと言っていたが、小寸で愛らしく賞翫するに値するこけしだった。平成20年代になって若い人たちに人気のでた新考案の変わり型を先取りしたような感もある。東京こけし友の会でも頒布された(写真の15.2cm)。

〔右より 9.8cm、9.5cm、15.2cm、9.2cm(昭和42年7月)、12.5cm(昭和42年9月)、12.2cm(昭和43年3月)(橋本正明)〕
〔右より 9.8cm、9.5cm、15.2cm、9.2cm(昭和42年7月)、
12.5cm(昭和42年9月)、12.2cm(昭和43年3月)(橋本正明)〕

このころ同時に鹿間時夫は巳之助と違った周助型を重之助に期待して、〈こけし這子の話〉に写真掲載された周助(実は中島正の作)を重之助に依頼した。下の写真の左端がそのこけしである。雰囲気はよく掴んでいたが、継続して製作することはなかった。

〔右より 20.0cm(昭和43年3月)、13.0cm(昭和43年7月)、21.4cm(昭和43年5月)(橋本正明)〕
〔右より 20.0cm(昭和43年3月)、13.0cm(昭和43年7月)、
21.4cm(昭和43年5月)鹿間時夫復元(橋本正明)〕

中屋惣舜が指摘するように、肘折は戦後久しい間、戦前の雰囲気を保ち得た産地であり、重之助はその雰囲気の中で育った工人であった。それゆえ若く、新しい世代の工人でありながら戦前からの肘折の独特の情味を自然な形で表現することが出来た。
後継者もないまま早く亡くなったのは残念であった。

〔伝統〕 肘折系周助系列

〔参考〕
1. こけしのなかのわたし

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